あと少し、あと少し、私の中に蓄積されていく想いが増えたら、きっと溢れて私は泣いてしまうだろう。 好きで好きでどうしようもなくて、いつからこんなに好きになってしまったのか、なんてどうでも良くなるくらい、好きで。 笑うたびに細められる明るい茶色の瞳とか、 透きとおった硝子みたいな声音とか、 小柄な割に筋肉のついている体とか、 たまに見せる憂いを帯びた表情とか、 全てが好きで。
あとどれだけ好きになればいいのだろう、なんて途方もない想いに少しだけ自分のことが怖くなる。 私の心の中に在る器には、入り切らなくなりそうな程、蓄積されてしまった想いは、たまに量を増して、暴れ回る。 それが辛くて、苦しくて。 そんな苦しさから解放される方法など、とうに解っていた。 けれど、そんな勇気もなかった。そんな自分が嫌いだった。 想いを伝えることによって彼との関係が崩れる、なんて逃げ道を作ってはそこに走り込む私はひどく弱々しい。 友達ですら居られなくなることが怖いのは本当だった。 けれど、友達でいることが物足りなかったのも事実だった。 彼がいつか振り向いてくれますように、そんな願うだけの日々が何時までの続くのか、なんて考え出したらキリがなかった。

「おはよう。」
「お、はよ。」
声をかけられる度に高鳴る胸は決して嘘などではなくて、私がそれだけ彼を好きだという証明で。 そう実感するたびに、苦しくなるのは、それも彼を好きだからで。
(声うわずった…気付かれた、かなぁ?)
ドキドキとうるさいくらいに鳴り響く心臓の音が、彼に聞こえてしまうんじゃないか、なんて。
さん、今日英語当てられるでしょ?」
「うぇ?うそ、そうだっけ?」
「たぶん。」
くすり、と笑った顔が眩しくて、くらくらする。 心臓がいつもの何倍も速く脈打って、私の頬は赤く染まり、手足が可笑しいくらいに震える。 どこもかしこも苦しくて、痛くて、私はもうすぐ死ぬんじゃないか、なんて縁起でもないことを本気で思う。
「俺、予習してあるから、見る?」
「え、と…いい、の?」
これ以上彼に接近したら、壊れてしまうと思うのに、もっと彼に近づきたい、一緒にいたい、と願う矛盾した心は、一体いつから生まれたのか。 そして一体、いつまで続くのか。
「うん、いいよ。」
笑みを深くする彼は、ひどく綺麗に私の目に映った。


彼から借りたノートの文字を目で追い、自分のノートへ同じ文を移していく。 私が淡々とその作業を繰り返している間、彼は私の席の隣へと腰掛け、静かに待っていた。 緊張で手が震える、元からあまり綺麗ではない自分の字が、更に形を崩していく様は、あまりに無様で、恥ずかしくなる。 彼が小さく奏でるのは、街中やテレビでよく耳にする歌だった。
「栄口くん、その歌好きなの?」
「…あ、ごめん。うるさかった?」
鼻歌を聴かれたのが恥ずかしいのか、彼は少し顔を赤らめて、はにかんだように、そして申し訳なさそうに笑った。
「ううん、大丈夫だけど…、好きなのかなぁ、って。」
「うーん、好きっていうか、耳に残るんだよね。」
「あ、わかるかも。」
くすりとお互いに笑うこの瞬間は、私の気持ちを彼が知らないから存在する瞬間であって きっと私がこの想いを伝えたら、彼とのこの心地よい空間は、失くなってしまうのだろう。 けれど、もし―― なんてことを考え出しそうになる自分の脳が疎ましい。 そんなことは、考えたら余計に苦しくなるだけなのだ。 ありもしない空想をいくらしても、ただ自分の首を絞めるだけだ。

さんは、この歌好きなの?」
「うーん、どっちかっていうと…苦手、かな。」
そう、彼の奏でていた歌は俗に言うラブソングで、それは私にとってただありがちな言葉を並べた『陳腐』なものに聞こえた。 私の恋は、ただ切ないだけじゃない、気付いて欲しいだけじゃないのだ。 切なくてもそこには確かに幸せな空間が在って、気付いて欲しくてもどこかでそれを拒む矛盾した気持ちが在って。 だから、世間で人気のあったその曲は、どうしても好きにはなれなかった。
「あ、俺も同じ。でも耳に残っちゃってさ、気付くと歌ってるんだよね。」
肩眉を下げて苦笑してみせる彼は、なんて素直なんだろう。
糸が絡まったように複雑な人間性の私には、程遠い存在のように思えて、胸がつかえた。
「俺とさんって、似てるのかもね。」
息を漏らして微かに笑う彼が、好きで。彼が言うようにもしも私が似ているのなら、どうか、いつの日にか私たちが同じ気持ちになれたらいい、なんて途方もない夢を見る。

全て写し終えたノートを閉じ彼に返すと、彼は深い笑みを浮かべて、どういたしましてと紡いだ。 透き通った、まるで風のような硝子のような、透明な声で。 先ほどまで彼の奏でていたラブソングは、どうしても好きになれなかった。 けれど、彼の声で奏でられたそれは、なぜだか心地よかった。透明感のある、歌に聞こえた。
(私って単純なのかな。)
少し切なくて、けれど甘くて。儚いけれど、確かに其処に在って。ひどく遠いようで、近いような。


「そうだ!」
突然、彼が手をぱちりと叩いて声をあげた。
「?」
ぽかんと口を開け呆けている私を見て、彼はくすりと笑い、そのあと携帯を出した。
「俺たち似てるみたいだし、良かったらアドレス、教えて?」
唐突に告げられた言葉は私の脳天に響き、心臓はまたうるさく鐘を鳴らし始めた。 彼の携帯の赤外線と私のそれを合わせている間、情けなく震える手をただじっと眺めていた。


少しだけ近くなったように感じられた彼との距離は、未だ遠いような気がしたけれど、 こうやって徐々に近づいていくのだろうと思った。 それは歯痒くてもどかしくて、少し怖かったけれど、それでも私は彼に近づきたいと思ってしまうのだ。


奏でる声


(好きです そう言えない俺も、ずっと狡い)