広い心でいたかった。何もかもを受け入れて、笑顔でいられるような人で在りたいと願った。
それでも、そう在ることは難しく、思うままの私でいることなど、到底出来ない気がするのだ。 時折、そうたとえば厚い雲がかかった日などは、気分が沈むことがあった。 そういう日だって、自分を周りを世界を愛したいのだ。――けれど、私にはそれが出来なかった。

不意に泣きたくなる。空を見上げても、目映い光を放つ太陽など見えはしない。 太陽さえ光を見せてくれれば、私の心も晴れていく気がするのに、それさえ許さない神様はきっと意地悪なのだ。 なぜ、こんなに哀しくなるのだろう。 今までに起きた哀しいこと、辛いこと。今、胸に抱えている不安と絶望。これから起こるであろう不幸と苦難。 それらがまとめて私の中にのし掛かってきているのだろう、と頭では理解出来ても、心がそれを受け入れない。 零れそうになる涙をこらえると、目の前に広がる世界は滲んで霞んだ。
これから先、幾つもの幸福や希望が私を待っていることを、私はわかっていた。 辛いことだけじゃないと、知っていた。些細な幸福はそこら中に転がっているのだと、知っていたのだ。 それなのに、どうしてだろう。今はこんなにも哀しい。

気分を入れ替えようと、お気に入りの洋服に着替えて、目蓋を明るいピンクで色付けて、頬もほんのりと桃色に染めて 少しヒールの高いパンプスと、先日買ったばかりのピアスを耳に光らせながら、大好きな公園へと向かう。

耳元で奏でられる音楽は、外の音が耳に入ってこないように、大きく設定した。 一歩、地面へと足が着く度に鳴っているであろうヒールの音は、聞こえなかった。 それが余計に私を哀しくさせるのだと頭で理解しながらも、私は外界の音を遮ることをやめはしなかった。
公園に着く。そこにはいつもならいるはずの子供達の姿が見えず、小さく息をはいた。 今はいいのだ、少し一人になりたかった。考えたかった。『何を』考えるのかは、よくわからなかったけれど――  耳元で透き通った声をした歌手が、綺麗に音符を並べていくけれど、それらは上手く頭に入ってこない。 公園の真ん中あたりに位置するベンチに腰掛けると、もう一度空を見上げた。 やはり厚い雲が、太陽の光を遮っている。



在りたい自分になることは、難しかった。どうしてだろう、こんなにも願っているのに、感情が上手くはたらかない。 すべてを愛していたいのに、時折私の中で渦巻いて暴れるのは、愛情とは正反対の憎悪や嫌悪だった。

大きく息を吐いた瞬間、肩を叩かれてびくりと体が跳ねた。 振り返ると、淡い笑みを浮かべたクラスメイトが一人。色素の薄い短い茶色の髪、少し小柄な体格、優しさをたたえた瞳と、溢れ出るあたたかな雰囲気。 彼の姿を見た時、いやに焦ったのは、きっと今は誰にも会いたくなかったからだろう。 上手く笑えた自信はなかったが、私はゆっくりと両耳のイヤホンを外し、彼へと目を向けた。
「さかえぐち、くん。おはよー、…って時間じゃないね。」
「あはは、こんにちは、だね。」
「どうしたの?家、このへんだっけ?」
i podに丁寧にコードを巻き付けてポケットへとしまいこむ。そうしてもう一度彼に目を向けると、彼はおおきなスポーツバックを肩にかけ直し微笑った。
「ううん、練習帰り。今日はすぐ終わったんだ。」
真っ白なユニフォームがところどころ土で汚れている。それすらも眩しく見えるのは、どうしてだろう。
「そう、お疲れ様。」
「ありがと。あ、隣座っていい?」
不意に尋ねられた言葉に、同意していいのか悩む。 今は、一人でいたかった。彼のあたたかさが恐かった。彼は優しいのだ、その雰囲気がそれを私に悟らせる。 今、彼の優しさに触れたら、私はきっと泣いてしまうだろう。

いつまでたっても彼の言葉に応えられないでいると、彼は首を傾げまたやさしく微笑った。
「…どうしたの、さん。大丈夫?」
まるで風のようなさり気なさで、柔らかさで、彼は私の核を突いてくる。 途端に、枷が外れたかのように、何かがこみ上げてくる。ずっと渦巻いていたごちゃごちゃの感情たちだ。
「…う、うん。」
今にも溢れ出しそうな涙を必死にこらえて、顔を伏せながら私は頷いた。 気を緩めたら今すぐにでも嗚咽が漏れそうなのを抑えるので、体が強張っていく。

彼はゆっくりと私の隣に座ると、その大きなスポーツバックを肩から降ろした。 そうして、小さく息を吸うと、私の頭をその綺麗に整った指で一度撫でた。 瞬間、目から一粒の涙が溢れた。彼はそれに気付いていたのに、何も言わずに、頭を撫で続けてくれた。

「…ご、ごめん。あの…えっと。」
溢れて止まらない涙を幾度も幾度も拭う。羞恥と罪悪感と劣等感で押し潰されそうなのに、彼のあたたかさが嬉しい。 むず痒い感情が、気持ち悪いようで心地良い。
「…ううん、謝ることなんてないよ。」
「ごめ、ん。本当、なんか…私おかしい…。」
嗚咽混じりの言葉を必死に紡いでいくと、彼は首を振り、また微笑った。
おかしくないよ、と小さな声が耳に届く。 その後、彼は静かに言葉を続けた。

「さっきね、通りかかった時、さんが公園に入っていくのが見えてさ。」
「なんか、元気ないように見えて、心配だったんだ。」
「それで声かけたら、やっぱりなんか様子がおかしかったから。」
「ごめんね、余計に辛くさせちゃったかな。」
頭を撫でながら、彼が苦笑する。私はゆるく首を振ると、まだ止まらない涙をもう一度拭った。

「ちが、うよ。…なんか今日は私おかしかったんだ。」
「うん、そういう日、俺にもあるよ。」
「…そう、なの?」
「うん、なんかわからないけど、悲しくて仕方ない日とかね。」
「……こんな私、嫌なんだ。もっと上手に…上手、に…生きていたい、のに。」
言葉にすると、それは更にリアルな現実となって私の眼前に現れた。 遠く遠く霞んでいる理想。手を伸ばしても届かない程に遠く見える。 走っても追いつけないのだろう、と絶望と不安で胸が締め付けられる。 苦しくて息が出来ない、心臓が鋭利なナイフで貫かれたような、そんな感覚だ。

「辛い時はさ、悲しい時とかも、だけど。」
「泣いちゃうのが、一番良いよ。」
泣くのは恥ずかしいことじゃないよ。

透き通った声で紡がれた彼の言葉は、私の中で色々な感情と共に循環を始めた。 救われた気がした。 ――けれど、まだ受け入れられそうにない。

「…ごめん、本当。」
「ううん、良いんだ。俺もそういうのわかるから。」
一人でいたいけど、一人でいるのが辛い時ってあるでしょ? そう言って彼は私の涙を、人差し指で掬い取って、深く微笑んだ。 まるで そうまるで、あたたかな陽だまりのような、そんな笑顔。
「上手に生きなくて良いんだ。」
「不器用でも、格好悪くても、一生懸命なら、それで良いんだよ。」
まるで歌うように紡ぎ上げられた言葉は、私の宝物になった。

いつだって小さな幸福は、そこら中に散らばっている。 今日こうして彼と会えたこと、彼がくれた言葉、彼を知れたこと。 それだって、立派な幸福じゃないか。
止まりかけている涙は、透き通っている。空は相変わらずぶ厚い雲を浮かべ、鈍く堕ちてきそうな程に暗い。 それでも、私の中には微かな光が灯されて、私を後押しするのだ。 走っても追いつけないのかもしれない、理想へと向かう道中には幾つもの苦難が待っているのだろう。 それでも、それが私のおおきなおおきな幸せへと続くのなら、 私が其処へ辿り着きたいと願い続けるのなら、歩める道なのだろう。 案外、神様は優しいのかもしれない、そう思うと、小さく笑みが零れた。



最果てが視えなくとも、

(終わりがないから、歩いていられる。そう気付ける。)