彼女は俺より頭ひとつ分、背が小さかった。彼女は、艶のある滑らかな茶色の髪をしていた。 彼女は、化粧などしなくても良いと思える程、瞳が大きくて、小さくてふっくらとした唇を持っていた。 全てが愛おしくて、どんな物よりも大切で、手放したくないと何度も願った。 けれど、幸せが生まれると同時に不安も生まれてしまうのだ。 俺は何時だって視えない未来に不安を抱えて、いつか彼女が俺から離れていくのではないかと明確な理由のない悪夢に犯された。

寂しさを我慢することには、もう慣れた。
ないもの強請りも、しなくなった。
けれど、大切な物を失うことには、まだ慣れない。

失いたくない、手放したくない、ずっと隣にいて欲しい。 華のような笑顔も、時折見せる雨みたいな涙も、林檎のように染まる頬も、雪のように白い肌も、 全て傍に在って欲しいのだ。いつまでも、ずっと。 世の中、何ひとつとして永遠など存在しないのだと、わかっている。永遠を信じていられる程、子供ではなくなった。 けれど、歳を重ねれば重ねる程、存在し得ない『永遠』を願ってしまうのだ。 これが、人の性なのだろうか。そう思った。



玄関のドアを小さな音を立てて開けると、外は幾分か白みがかっているが既に明るくなっていた。 監督が5時から朝練をすると言ってから、ずっと朝4時に起きているのだが、その生活にもすっかり慣れた。 太陽が顔を出しかけているその時間帯は、人も車も少なくて、好きだった。 時折聞こえる鳥の声や、耳元を風が通っていく音、草木が揺れる音さえも聞こえてしまうような、そんな空間が俺を芯まで浄化していってくれるようで、 夜よりも、早朝の方が好きだった。 朝焼けで空が綺麗なグラデーションを見せる。自然と笑みが零れるのを隠せなくなるような、綺麗な空だった。
彼女は、もう起きているだろうか。まだ寝ているだろうな。
そう思うと、俺は携帯電話を取り出せず、小さく自重気味に嗤って自転車に跨った。 脳裏に深く残る彼女の笑みが、なぜだか酷く恋しかった。


朝練が終わると、適度に疲れた体を動かして教室へと向かう。 グラウンドから校舎へと戻る途中、彼女の後ろ姿を見つけて、俺は無意識に後を追っていた。 脳裏で彼女の笑みが鮮明に再現されていく。会いたいと、何時だって願っているのだ。声が聞きたいと、触れたいと、何時だって願って止まないのだ。 彼女は、中庭へと足を進めると、木陰に腰を下ろした。
…!」
いつの間にか走り出していた俺は、息を切らしながら彼女の傍へと駆け寄る。すると、彼女は何度か瞬きを繰り返し、小さく小首を傾げた。
「勇人?どうしたの?」
「朝練終わった時、がこっちに来るの見えたから…。」
「追いかけてきたの?」
くすりと微笑うその姿は、昨日だって見たはずなのに、いつも俺に新鮮な感動を与えてくれる。
「うん、ごめん。」
「なんで謝るの?別に良いのに。」
勇人と居れる時間なら、何だって良いよ。そう言って彼女は小さく微笑んだ。
愛おしい気持ちばかりが膨らんで、理性なんてなくなってしまえばいいと、不謹慎にも思う。 隣に腰掛ける彼女の横顔を盗み見る。木々の合間から漏れる光に、まつげが濃い影を瞳におとしていた。 ひどく綺麗で、触れてはいけないと錯覚するほどに清楚な人に見えた。 失いたくない、それなのにどうして自分の脳は、嫌な未来ばかり想像するのだろう。 こんな未来は要らないのに。隣に彼女がいない世界など、俺は欲しくなどないというのに。

俺はいつだってマイナスな要素ほど、濃密にリアルに、己の中で想像出来た。 幸福で満ちあふれた未来は、いつだって不安定で不明確で、ぼやけるように靄のかかった形でしか、想像出来なかった。

俺の表情に、自虐じみた笑みが浮かぶ。 彼女は、それを見逃さなかったのか、心配そうな顔をして、ゆっくりと俺の手を握った。 小さいはずの彼女の手のひらが、やけに広く大きく感じて、安心する。

「今、悲しいこと考えたでしょ。」
「…ごめん。」
「あのね、勇人。」
彼女は小さく息を吐くと、俺の頬を両手で包むようにして挟み、にっこりと微笑んだ。
「私は、勇人が好きだよ。必要だよ。それは変わらないよ。」
俺の欲しい言葉を、彼女はひとつの濁りもなく、その透き通るような声で歌い上げるようにして紡いだ。 体内で燻っていた不安が、少しだけ和らぐ。
「私もね、いつも不安なんだ。勇人が、もし私のこと嫌いになったら―」
「そんなことあるはずない。」
彼女の言葉を、つい遮る。感情だけが溢れて、口は動くことを止めてくれない。
永遠など存在しないと、わかっているのに。 彼女の気持ちだって、俺の気持ちだって、この関係だって、永続すると断言出来ないのに。 理想ばかり追ってしまう。永続すれば良いと願っているだけなのに、それをまるで実現出来るかのように云う俺は卑怯だ。
「うん、勇人が、そうやって言ってくれるから、私はそれだけで良いんだ。」
にこり、と少し切なく笑う彼女だって、きっと『永遠』が存在しないことをわかっているのだ。 それでも、永遠を願い、信じていたいからこその、言葉で。だからこそ、俺を好きでいてくれるのだと、今わかる。

「今、私が勇人を好きだってことは、変わらないし、それだけはちゃんと存在してるよ。」
「俺も、同じだよ。」
「うん、ありがとう。」

俺たちはいつだって弱くて、脆かった。 まだ幼くて、目の前にある酷く不安定な現実を、上手に受け入れることが出来なかった。 だから時に壊れそうになり、泣き崩れたりした。

彼女が笑う。俺の中で、またひとつ彼女の存在感が増す。 その白く透き通る頬に手を添えると、彼女はまるで慈しむかのように俺の手に、小さくて細い指を添えて、より深く微笑んだ。 触れるだけの軽いキスをひとつすると、お互いの額を合わせて俺たちは小さく微笑った。

永遠がなくても、確信がなくても、今この瞬間に在るお互いの確かな感情は真実だから。 それだけでも、せめて大事に抱きしめて、絡めて繋ぎとめて。 そうすれば、今よりきっと幸福に近い位置に俺たちは立っていられるのだ。


不安はいつだって俺たちの隣に在る――

叶える願い


――その裏には、幸福だって在るのだから