彼はいつだってゆるく浮かぶ雲のように自由だった。
追いかけても、追いつくことなどなくて、私はいつだってその背中を見ているだけだ。
学校中の女子からそこそこ人気のある彼が、私を好きだと告白してきてから、そして付き合い始めて半年が経った。
彼はいつだって落ち着いていて、意地の悪い笑みを浮かべて私を戸惑わせる。
時折、不安になる。私ばかりが彼を好きで、彼はそこまで私を好きではないのかもしれない、と。
ひどく天気の良い日だった。中庭にある大きな木の下で、私は綺麗な芝生に腰を下ろした。木陰から漏れる太陽の光が、ちかちかと視界に散る。
少し眩しいその感覚が心地よい。午前最後の授業は、サボってしまおうか、なんて不謹慎なことを考えて、目を閉じた。
どれくらいの時間が過ぎただろう。静かな足音が聞こえて、目を開けた。
「慎悟さん。」
「なーにしてんだ?」
まさかサボり?そう言って、彼はあの意地悪い笑みを浮かべ、あまりに自然に私の隣に腰を下ろした。
そういう時、私はらしくもなく、いやに恥ずかしい気持ちになるのだ。
整った顔立ちと、程よく鍛えられた体型、少し低い落ち着きのある声音、それら全てが彼を象徴していて、
そんな彼が私を好きだと言ってくれた事実と、いつの間にか大きすぎる程に募ってしまった私の想いが、ふとした時に私の眼前に現れるのだ。
「…そういう慎悟さんこそ、サボりですか?」
「そういうつもりじゃなかったけど、お前がサボるんなら、一緒にサボってやろーかな、と。」
にこりと白い歯を見せて男らしい笑顔を私に向ける。
その笑顔が、今この瞬間は私だけの物であると思うと、私の胸は高鳴る。
「じゃあ、サボってもらいます。」
「はは、マジかよ。」
「マジです。」
はいはい、と返事をしながら彼が私の頭をくしゃりと、大きく二回撫でる。
手のひらの感触が心地よくて、こういう時間がもっと増えればいいと、心の奥で願う。
届かない願いなのかもしれない、叶わない願いなのかもしれない。それでも私は願ってしまうのだ。
ひとつ願いが叶えば、また次を。次が叶えば、更に大きな願いを。そうやって尽きることのない願いを、いつまでも抱き続けるのだろう。
苦しくて、切なくて、片想いをしている方がずっと良かったなんて、現状を少し疎ましく思う程に。
「慎悟さんって、モテますよね。」
「いきなり、どうした?」
「モテますよね?」
きっと今、私は嫌な顔をしているのだろう。
隣の彼は、訝しげな顔をして私の目を真っ直ぐに見ている。
確証のない嫉妬を、好きな人にぶつける私はなんて卑しいのだろう。
けれど、不安で押しつぶされそうなのだ。私がいくら想っても、彼はきっといつか離れていくだなんて。
甘い言葉が欲しかっただけかもしれない。
愛してると言って欲しかったり、息が出来ない程のキスを降らせたり、いっそ壊れる程に抱かれたり。
愛されてると、感じたかっただけなのかもしれない。我が儘な私のことだ、きっとそうに違いない。
心臓が嫌な波を打たせていく。自分への嫌悪と、不安とで、ごちゃごちゃになっていく感情が止められない。
「…モテるかどうかはわかんねぇけど。」
「俺がモテたとして、お前はどう思うんだ?」
「…悔しいです。」
「はは、そっか。」
私が口を尖らせたのとは反対に、彼は清々しい程の笑顔を浮かべ、私の頭を一度、二度、おおきく撫でた。
その動作が、また私を不安にさせるのだ。
私ばかりが焦れて、一人で空回りをして。
私が口を噤み、足下の芝生を指で摘みあげていると、彼はくすりと吐息を漏らし笑った。
「俺って愛されてるな?」
「…はい?」
「お前、嫉妬してくれてんだろ、愛されてるなーと思ってさ。」
にこりと、厭味さえ感じられる程の笑顔を向けられて、私の鼓動は早くなる。
「そうですよ、愛されてるんですよ。」
「はは、なんだ、今日は素直だな?」
また大きな彼の手が、頭へ伸びてくる。
嬉しいのに、こんなにも好きなのに、どうしてかマイナス要素ばかりが体内を巡っていく。
私だけを見てくれたらいいのに、私だけが彼を見れたらいいのに。
私が想うくらい、彼も私を想ってくれたらいいのに。
「…私ばっかり…、」
「ん?」
「…私ばっかり、慎悟さんを好きみたいで…悔しいんです。」
口を出て割った言葉が、余計に私を焦らせ、不安にさせる。
それでも言葉が溢れていくのを止められなかった。
彼に一言でいい、好きだと言って欲しかっただけなのだ。
この不安を消し去れるのは、他の誰でもなく、彼しかいないのだ。
「……お前…。」
私はきっと泣きそうな顔をしている。
顔をぐしゃぐしゃに歪ませて、今にも溢れそうな涙を堪える自分の顔が、どれだけ不細工かを私は知っているのだ。
そんな顔を彼に見せたくないという、微かな女心から私は顔を伏せた。
そんな私の行動を遮るようにして、彼は私の頬を、その骨張った指で優しく包み込んだ。
「…あのさ、先に言っておくけど。」
「…はい。」
「俺たちはさ、決してお互いが必要不可欠ってわけじゃない。」
大きな音を立てて私にのし掛かってきた言葉は、リアル過ぎて、頭が痛くなる。
彼はどんな顔をして、こんな言葉を放ったのか。真っ直ぐに彼を見ると、彼はどこか痛々しい表情をして、くしゃりと笑った。
「たとえば、俺たちが別れた時、俺たちは別に死ぬわけじゃないんだ。」
「…そ、そんなこと…わかってます。」
リアル過ぎる言葉は、感じたくない程の事実で、だからこそ聞きたくはなくて。
「それでもさ、と一緒にいたいって、思うことは…」
「それは、好きっていう理由にはなんねーか?」
眉根を寄せて、苦く笑う彼はひどく哀しい顔をしていた。
彼が、そんな顔をするのを、もしかしたら初めて見たかもしれない。
自分の左胸の奥がちくりと痛む。それはこんな顔をさせてしまった罪悪感からか、リアルな現実のせいなのか。
「俺がどんだけお前を好きか…って今更口にすんのはなんかなぁ…。」
照れたように笑い、右手で己の頭をかいた彼は、ひとつ息を吐くと、私の目を真っ直ぐに見据えた。
ゆるく吹いた風が、私たちの髪を揺らし、太陽は強い光を放った。ちかちかと視界に光る虹彩が眩しい。
私が目を瞑ると同時に、触れるだけの柔らかなキスが落とされた。
「…慎悟さん、今キスしましたね。」
「おお、したよ。…なに、嫌だった?」
意地悪く笑う彼が、好きで。一人の人をこんなに好きになれるのは、奇跡に近い。
「…別れるとか、そういうの考えたくないけどさ、」
「はい。」
「いつか、そうなっちまう時のために、今があるんだからさ。」
「…そうですよね。」
「ま、こうやって言ってるうちは、別れないんだろーけど。」
「ふふ、そうかもしれないですね。」
彼が優しく私の髪を撫でる。彼が私の中に浸透していく程に、愛おしさは増して。
胸の内でくすぶる想いは、決して消え去ったわけではないけれど、それでいいのだと、わかった。
そうやって不安や葛藤を抱えている内は、それらと真っ当から向き合えるのだ。
そうして今を、現状を大事にしてやることが、今の私たちには必要で、辛くとも哀しくとも、幸せという現実は確かにそこら中に散りばめられていた。
「まー、不安なんだったら、今から学校抜け出して、どっかデートでもすっか?」
「何言ってるんですか、受験生のくせに。」
「その受験生をサボらせたのは誰だよ。」
「ふふ、すみません。」
私の手が、彼の手と重なったその時に、彼はもう一度キスをした。
拾い集める僕ら
(『いつか』は、『いつか』であって、『今』ではない)