靄が強く残る朝。指先がじんじんと寒さで痛む。
幾度も口から漏れる息は、そのたびに白く浮かんで、音もなく宙に消えた。
寒さから逃れるように、マフラーに顔をうずめる。
耳元で聞こえる音楽は、静かに誰かへ向けたラブソングを奏でていた。
ゆっくりと歩くことでその歌詞は明確に私の脳へと入ってきた。
自分で入れたはずのその音楽は何かが気に入らず、私はポケットからi podを取り出して、次の音楽へと曲を変えた。
(恋がしたいな)
そう思った。先ほどのラブソングに感化されたのかもしれない。
私も惜しみなく愛を与えられるような、そんな恋がしたいと不意に思った。
これまで、いわゆる彼氏という人がいたことは、そこそこにあった。男性に免疫がないというわけではなかった。
初めて付き合った人は、背の高い人。二人目は、優しい人。三人目は、年下だった。半年前に別れた四人目の彼氏は、独占欲が強かった。
ただなんとなくで付き合ってきた。告白されたり、その時の雰囲気で、なんとなく。流されたといえば、そうだったのかもしれない。
私は本当の意味で誰かを好きになったことがあるのか。
たまに、そんな途方もないことを考えて、頭を痛くすることがある。
今日もきっと、そういう日なのだ。
好きになるということは、途方もなくて、それこそ感性の問題で。
考え出したら、明確な答えなど、どこにも見つけられなかった。それでも人は誰かを好きになる。
かたちに違いはあれど、好きという感情に大差はないのではないか、なんて悟った風な自分の答えを見つけた。
ふ、と前を見ると、見慣れた後ろ姿を見つける。
「…慎悟さん?」
小さく声をかけると、振り返った人物は、訝しげな表情をして私を見た。
「おう、か。」
「珍しいですね、朝一緒になるなんて。」
「だな。」
「あれ、慎悟さん、ここ赤くないですか?」
ふ、と目についた彼の左頬の赤み。自分の頬を指さして、それを示すと彼は些か気まずそうに苦笑を零した。
「あー…ちょっと、な。」
「…誰かに引っぱたかれたんですか?」
「…当たり。」
赤みを帯びた頬をさすり、彼が苦笑を深くする。へらりと自嘲気味な笑みを浮かべると、頬の赤みは増したように見えた。
「慎悟さん、女の子を軽く扱いすぎなんですよ。」
「まぁ、確かに酷いことしたのかも、な。」
「ほら、自覚あるなら気をつけて下さいよ。」
女の子は繊細なんですよ、なんて突き放すように言うと、彼は気のない二つ返事を繰り返した。
「女って面倒くせーのな。」
「そういうこと言うなら、もうお付き合いとかやめればいいじゃないですか。」
「ん、そーだな。そーっすか。」
太く逞しいその指で己の頬を掻く彼は、酷く大人に見えた。
たったひとつしか違わないというのに、彼はいつもやけに大人びて私の目に映る。それが何故か悔しい。
会話が途切れる。何を話すわけでもなく、ただ肩を並べて歩く。
私の歩幅と彼のそれは、あまりに違うのに、同じペースで進んでいれるのは、彼が私に合わせていてくれるからだ。
そういう優しさを知っているのだ、私は。だから、彼が酷いことをした、なんて信じなかった。
「…私と野球、どっちが大事なの、だってさ。」
「は?」
「そう言われた。」
「はぁ。」
「で、野球って答えたら叩かれた。平手でぱーん、と。」
「……そう言うときは、嘘でも彼女って答えるべきなんですよ。」
「も、そう言って欲しいのか?」
「…なんで私の話になるんですか。」
「いや、気になったから。」
彼はこちらを見ることはせず、前だけを見据えながら問いかけてきた。
彼に問いかけた彼女の言葉は、理解出来ないこともない。
寂しさを感じることは、決して間違いなどではないと思う。むしろ真っ当な感情だったのだろう。
けれど、彼氏が頑張っていることを応援してやれなくて、何が彼女だ、なんて思う自分もいる。
少しだけ彼にとって今は元彼女となった女性のことが、浅ましく思えた。
(顔も知らない相手に、何を思ってるんだろう、私。)
「で、お前はどう思う?」
「まだ聞きますか。」
「これからの参考ってことで。」
ふ、と目だけ細めて笑う彼は、酷く切なくて弱々しく見えて、胸のあたりがちくりと痛んだ。
一瞬の痛みで、私はそれに気付くことはなかったけれど。
「…私は、寂しいけど言わないと思います。ていうか、言えない。」
「へぇ。」
「だって、頑張ってるの知ってるんですよ、そしたら…寂しいなんて言えない。」
「は強情だもんな。」
「…人が真面目に答えてるのに、その返しはどうかと思いますけど?」
ごめんなんて、幾らも謝る気を感じさせない口調で彼は笑う。
「次の恋は、しばらく後でいいか。」
そう一人呟いた彼は、酷く晴れやかな顔をしているように見えた。
その横顔に、胸がひとつ音を奏でた。先ほどまで耳元で流れていたラブソングのような甘い音だった。
迫り来る足音
(それは恋が始まる暗示)