夏がもうすぐそこまで来ている。それを知らせるような朝だった。 ギラギラと光を放ち、鋭い熱がそこら中に充満している。湿気はそこまでなかったが、暑さに弱い私は、それだけでも気分が滅入る。 今日は、朝ご飯も何故だか美味しくなくて、お気に入りの靴は玄関先で躓いてヒールを壊してしまった。 今日はどうも運のない日らしい。重い足を動かして、なんとか学校まで着くと、私は鞄を机に置いて、すぐに中庭へ出た。
暑さを凌げそうな木陰を選び腰を下ろす。依然として太陽は眩い光を放っていた。 ふ、と廊下から賑やかな声が聞こえてきた。ゆっくりと視線を廊下へ移すと、数人の女の子と淡い茶色の髪の男の子が何やら楽しそうに話しているところだった。
「みず、たに…。」
思わず名前を口にしてしまう。 同じクラスの、男子の名前。彼は、話題が豊富で、洒落っ気があるところからか、女子とも仲が良いようだった。 彼の周りにはいつだって人がいた。 その中心で、にこにこと朗らかな笑みを浮かべている彼が、私は遠い人のように思えて仕方がなかった。
別に友達がいないわけではなかったけれど、私は一人でいる方が気楽で好きなのだ。 あまり賑やかなのは得意ではない。私とは真逆に位置する彼の存在は、羨ましくもあり、不思議でもあり、掴めない雲のようにあやふやだった。 楽しそうに話しながら廊下を歩く彼を見て、また気分が降下していく。 長く重い息を吐いて思う。やはり今日はついてない。そういう日なのだ、と。



ふ、と廊下を歩く彼がこちらを見た。ばちりと音さえ立てそうな程しっかりと、交差した視線。 思わず目を逸らしてしまう。何故だか自分でもわからなかった。 芝生を踏みしめる音がして、私はまた視線を移す。まさか、とは思ったが、先ほどまで廊下を歩いていた水谷が、すぐそこまで来ていた。 嫌な焦りが、自身の中を駆け巡っていく。今は、誰とも話したくないのだ。今はきっといつも以上に上手く言葉を選べそうにないし、笑顔もつくれそうにない。 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、水谷の朗らかな声が私の名前を紡いだ。
っ、何してんの〜?」
「…、おはよう、水谷。」
「うん、おはよ〜。」
その愛らしい顔に笑顔を浮かべると、彼の顔はより一層愛くるしさを増した。 その笑顔につられて、私の頬も弛む。きっと、彼のこういうところは、長所なのだろうと、どこか遠くで思う。
(あ、今笑えてるなぁ私…。)
そう思うことですら、どこか虚ろだ。笑顔は浮かべられて、決して嘘の笑顔ではないものなのに、どうしてか霧がかったような気持ちは拭えない。
「で、何してたの?」
「何も?なんとなく…、かな。」
「ふぅん。」
不思議そうな顔をして、彼は至って自然に私の隣に腰を下ろした。 すると、顔をこちらへ向けて、またひとつ笑う。
「今日は天気良くて、なんか気分良いよね。」
彼はそう言って、伸びをした。今の言葉は嘘ではないのだろう、それを証明するかのように彼は心地よさそうに息を吐くと、そのまま上体を寝かせた。 私とは真逆に位置する彼は、感受性まで正反対らしい。 私は、こんなにも鬱々とした気持ちでいるのに、彼は気分が良いと云う。
「水谷が…羨ましいな。」
口から零れた素直な気持ちは、きっと厭味になってしまっただろう。 自分への嫌悪感が募っていく。自分の不快感を何ら関係のない彼にぶつけている私は、ひどく子供で我が儘だ。 唐突に羨望の言葉をぶつけられた彼は、目を丸くて、首を傾げた。 そうして、何故だか「大丈夫?」と、そう私に問うた。 一体、彼が何を思って、私のことを気遣ったのか、理解に苦しむ。 ただその言葉は、私の奥深くに在った核をちくちくと刺激して、鈍い痛みを与えていった。

「…大丈夫…かな。」
「なんか、悩みでもあるの?」
彼は私が思っていた以上に鋭いらしい。きっと人の気持ちに敏感なのだろう。 いつもゆるい笑みを浮かべ、他愛もない日常の話ばかりしている彼は、私にとってある意味では軽い存在だったのだ。 しかし、その一言で気付かされる。そんな彼だからこそ、敏感なのだと。だからこそ、彼の周りに人は絶えないのだと、気付かされた。 軽い存在だったのは自分の方ではないか。自嘲するような笑みさえ零れてくる程に、己の甘さに反吐が出そうな感覚が襲う。
「…水谷って、すごい。」
へらりと、笑ってみせると、彼はふんわりと微笑った。
すべてのものを、朗らかな色に染めてくれるような、あたたかい笑みだ。まるで、全てを許しているかのような一種の情愛に満ちた笑みに体の芯が疼く。
「…今日はね、俺、朝ついてないなぁって思ったんだ。」
「…え?」
普段は聞かない少し低い声音で彼は唐突にそう切り出した。ふ、と彼の表情が、少し憂いに満ちたものに変わる。 思わず聞き返してしまったが、彼は静かに淡々と言葉を続けていった。
「靴ひも切れちゃうし、朝はパンが良かったのに、米しかないし。髪も今日に限ってうまくまとまんないし。」
一見、くだらない、どうでも良いことを気にしているような言葉だが、ひどく共感した。
「だからさ、今日はついてない日かもって、ちょっと凹んだんだよね。」
「そうだったんだ。」
相づちを打つと、彼はにこりと笑った。もう憂いを感じさせないいつもの愛らしい笑顔だった。
「そういう日ってね、ひとつ嫌なこと見つけて凹んじゃうと、その日ずーっと嫌なことしか目に入らなくなんだ。 で、夜になって考えると、別に嫌なことばっかじゃなかったって気付いたりとかしてさ。 結局、嫌なことしかない一日ってないんだって、思ったんだよね。」
青く芽吹いた芝生の上に寝かせた状態で、腕を伸ばし彼は目を閉じた。
ゆるやかに垂れた目元を縁取った睫毛が、木々の間から漏れる光で透けて見える。

ひとつを気にし出すと、止まらなくなることがあった。 ひとつ嫌なことを感じると、確かにその日一日、身の回りの起こる嫌なことしか目に着かなくなっていた。 思い返せば、今日だって嫌なことだけではなかったのだ。 空は綺麗な水色を浮かべているし、いつも失敗するアイメイクも今日は上手く施せたではないか。 小さな幸せなど、そこら中に散らばっていたのだ。見逃していただけだったのだ。 どうして、今までそれに気付かなかったのだろう。気付けなかったのだろう。 日常は私に、こんなにも愛おしい色を散りばめていてくれたというのに。

「……なんか、今すごくスッキリしたかも。」
ふ、と笑みが漏れる。それはもう、自嘲的な意味を含まない、本当にほんとうに嬉しさからこみ上げた笑みだった。 彼は寝かせた上体を起こし、にこりと深い笑みを浮かべ、私の髪を一度梳いて、もう一度笑みを深くした。
「そ?良かった。」
じゃあ教室いこっか。

言葉に続いて差し出された手のひらに、己の右手を重ねると、意外にもおおきくて逞しい彼の手のひらの感触がひどく愛おしいものに思えた。



――あなたが与えてくれた

抱きしめる世界

おおきな幸せを糧にして――





(気付いて欲しい、愛して欲しい、世界も自分も すべてを)