と別れて、もう三年が経とうとしていた。 春も半ばを過ぎだした頃に訪れた別れは、あまりに唐突で、俺を絶望の淵に立たせるには十分過ぎる程の重さを伴っていた。 『永遠』だなんて、信じなければ良かったのだ。指切りなど、しなければ良かったのだ。 後悔など、今更しても遅いのだと、あの頃の俺はそう必死に思いこんで、彼女を苦しめていた『テニス』により一層打ち込むことで、彼女を忘れようとした。
俺にとってテニスも彼女も、失いたくなどないひとつの宝物で。 あの頃の俺は、自分のことで手一杯で。何も言わなくてもわかってもらえるだなんて、勝手な思いこみで愛しい彼女を苦しめたのだ。 言葉にしなければ、わからないことがある。 今でこそ、そう思えるのに。



どうしてあの頃の俺は、それがわからなかったのだろう








「ずっと一緒にいてね。」
「せやな、絶対離さんから覚悟しとき。」
握りしめた彼女の手のひらの温度も、唇が触れた頬の柔らかさも、未だに鮮明に俺の中に残っていた。 必死に打ち込んだ『テニス』も、その一時だけしか彼女を忘れさせてはくれなかった。



『テニス』と『』。その両方を手放したくないと今でも願ってしまう俺は、我が儘なのだろうか。


中学を卒業する時。友人たちと涙する彼女を見つけた。 最後くらい、何か声をかけようと一歩踏み出した時、俺の前には部員たちの波がやってきて、それを許さなかった。 潮時なのだと、今更感じ、部員の波に呑まれるようにして、遠のいていく彼女の姿から目を逸らした。 卒業証書を胸に抱きながら涙する彼女の姿は、あの日俺の前で見せた泣き顔を鮮明に俺の中に残していった。












春の色を濃く混ぜた風が吹き始めたある日。そう丁度、を失った日から三年後。 駅で見覚えのある後ろ姿を見つけた。 栗色の胸まである長い髪と、遠くからでもわかる透けるように白い肌は、俺の中で燻っていた感情を蘇らせるのに十分な衝撃を持っていた。 勝手に体が走り出す、封じ込めていた想いが一瞬にして爆発して、考えるよりも先に行動していた。



勢いよく掴んだ手首は、懐かしい感触がした。





振り向き様に見えた顔は、目を見開いて俺の顔を凝視している。
「……く、ら…?」
「……。」
夕焼け空が綺麗なグラデーションを浮かべている。過ぎていく上りの電車が起こす風が二人の髪を強く揺らしていった。 俺たちの時間の中で、ぽっかりと空いた三年分の穴。 彼女の顔はそれを表していた。 少し濃い目に化粧を施した顔、見慣れない制服、長さは変わっていないもののくるりと内巻きに捻れている髪。 けれど、彼女の纏う雰囲気は、三年前と何も変わっていなかった。 そのことに、ひどく安堵する。自分は未だに過去に縛られ続けているのだと、改めて気付かされる。
「…ひ、久しぶり、やな。」
「…うん、そうだね…。」
ぎこちない会話が、彼女との間に出来た溝を深く暗くしていく。
「…元気しとったか?」
「…うん、蔵は?」

『蔵』そう紡ぐ彼女の声は、三年前と何も変わらない。 ずっと胸で燻っていた忘れられなかった想いだけが、膨張していく。 今更だと、もう遅いのだと、冷静な頭でそう思うものの、押し寄せる感情には勝てなかった。 ずっと会いたかった、一時も思わないことがなかったと言えば嘘になるけれど、確かに彼女の存在は俺の中でずっと特別だったのだ。



「…がおらんくて、寂しかった。」
「…蔵、何言って、」
「ホンマに寂しかったんや。ずっと後悔しとった。なんで別れたんやろって。 あん時の俺な、…今もやけど、テニスもも大事やってん。どっちも離したくなかったんや。 言わなくても、ならわかってくれる、って勝手に思っとって、そんでを苦しめて。」
アホやな、俺。そう言って笑ってみせようとしたが、口にしたことで現実感の増した己の言葉が、重くのし掛かってきて 頬の筋肉は強張ってしまったらしい。引きつった笑みしか出てこなかった。



「…蔵、どうして…どうして今そんなこと言うの…。」
「…すまん、けど、どうしても…っ、」
「…謝らなくて、いい。私も…ずっと、ね。ずっと、蔵のこと忘れられなかった。」
「…うそ、やろ?」
「……嘘だったら、いっそ良かった。」
彼女はそう言って、苦く笑った。おおきな瞳にうっすらと浮かぶ涙に、俺まで苦しくなってくる。

「…私ね、蔵と別れたあと、早く忘れようって思ったの。でも出来なかった。」
ポツリと音が聞こえてきそうな程、大きな涙が一粒地面へ落ちた。 人気のないホームは、彼女の小さな声を鮮明に俺の鼓膜へと届けた。
「…どんなに好きでも、『永遠』なんてないって、蔵と別れて…知った…。」
そう言うと、彼女は溢れ出る涙を拭って、ひとつ笑った。夕日に照らされた彼女の頬の涙の跡がきらきらと光って、俺の目に虹彩を散らす。 『永遠』などない。その事実に気付けたのは、お互い離れてからだったようだ。 俺たちは、違うようで同じ道を辿っていたのかもしれない。どこか遠くでそう思った。







「…ずっと言いたかったことがあるんや。」
「…うん、なに?」
「もう"ずっと一緒"だとか"離さない"とか、言えんけど…、だからこそを大事にしたいって思えんねん。 "永遠"が、ないってわかっとるから、"永遠"に一緒にいたいって、思えるってわかったんや。 せやから、…もう一回、俺と付き合ってくれませんか?」
そう言って、震える右手を彼女の目の前に差し出した。すると、彼女は柔らかく微笑んだ。 その笑顔は、あの日から脳内にこびり付いて離れなかった苦い彼女の泣き顔に上塗りされて、より濃く綺麗に俺の瞳に映った。
「…私も、もう"テニス"と"私"どっちが大事か、なんて聞かない。 蔵が頑張ってるところ、見るのが好きなんだもん。嫉妬する方が間違ってたんだって、今だからわかる。 今なら蔵ともっと上手に付き合える、もっと蔵のこと好きになれる。だから、…私のことを好きでいてね。」
言い終わると、彼女はたたえた笑みを更に深くして、その小さな細い右手を俺の手に重ねて、絡めて、握りしめた。



ぎゅう、と力を込めて彼女の手をきつく握ると、彼女は痛いと少し笑って、ごめんと俺は謝った。








遠回りをして、すれ違って、一度は離れたけれど、きっと俺たちの道は、俺たちが今を大切にしていくことで、 平行線を描きながら進んでいけるのだろう。



駅からの帰り道を、二人で歩く 見慣れたはずの景色は、夕焼けの色と相まって更に色を濃くしていた

ずっと覚えていよう 最初に紡いだ幸せも、苦く辛い悲しさも、今から奏でていく幸せも


そう誓った 18歳の春