夕焼けは、何故だか私を焦らせる。水色から赤へ、そのあと赤から藍へ変わっていく様を見るのが好きだった。
心地良い焦燥感は私を奮い立たせるのだ。
何か特別にやりたいことがあるわけではなかったけれど、空が徐々に色を変えて太陽が沈み、星が瞬き始めるのを見ていると、『頑張ろう』そう思える。
特に何があったわけでもない、無性に哀しくて切なくて胸がきゅうきゅう締め付けられるようで、苦しい時、私は決まって学校の近くの土手に座って空を眺めていた。
それは天気の良い日限定の行動だったけれど。
空は私に同調するように、徐々に彩度を落としながら藍色へと変わっていこうとする。
不意に泣きたくなる。いっそ泣いてしまえたら、きっと楽になるだろう。しかし、涙は目蓋の奥で溜まって溢れてはこなかった。
それは決して不快な感覚ではなかった。むしろ、私を再び立ち上がらせてくれる糧になるような、そんな感覚なのだ。
不意に後ろから砂利を踏む足音が聞こえた。ゆっくりと振り返ると、まだ残る陽の赤さに照らされた顔は、ゆるく微笑んだ。
「やっぱりや。」
「白石、どうしたの?」
「それはこっちの台詞や。どないしたん?こないなとこで。」
黄昏れてたんか?と冗談めかして彼はゆっくりと土手の芝生を踏みしめて私の隣に立った。
座ったまま彼を見上げると、その顔は影が濃くてよく見えなかったが、影の付き方で変わらない笑みを残しているのだとわかる。
「そう、黄昏れてた。」
一度ゆっくりと瞬きをしてから、空へと視線を移す。
すると彼はゆっくりと私の隣へと腰を下ろした。
「俺も一緒してええか?」
「ん、いいよ。」
そこで会話は途切れた。
白石の雰囲気は不思議だ。落ち着いているようにも感じるし、年相応の無邪気さも見える。
本来なら、こういう時、傍に誰かを居させるのはあまり好まないのだけれど、彼には何故だかそれを許してしまった。
視線を隣の彼に移すと、彼は目を細めて空を見上げていた。微笑んでいるのに、どこか切ないような遠くを見ている瞳。
じっくりと彼の顔を見るのは初めてだった。以前から整った顔立ちをしているとは思っていたが、近くで見ると更に際立ったものを感じる。
長いまつげも、綺麗に揃えられた眉、少し高めの鼻、不自然さを感じさせない髪。
くすんだようなアッシュブラウンの髪と、それより少し濃い色をした瞳が、夕焼けの色を帯びて、光っていた。
綺麗だと思った。同年代の男の人を、こんなにも綺麗だと感じたのは初めてのことだ。
不意に白石が、ゆっくりとした動作でこちらを向いて、やんわりと微笑んだ。
夕焼けを見ている時とは、少し違う、もっと暖かみに満ちた笑顔。
「どないしたん?」
普段より少し低い掠れた声、それでも彼独特の柔らかさと透明感は変わっていない。
「ううん、白石って綺麗な顔してるな、と思って。」
「なんや、突然。」
「じっくり見たの初めてだったから。」
「褒めてくれるんは嬉しいけど、照れるわ。」
右手の人差し指で頬を一度掻く姿は、確かに男性の香りを纏っていた。
胸がひとつ音を奏でる、切ないような、それでも愛おしいような、甘い感覚だ。
「なぁ、夕焼け見とると、なんやこう…切なくならへん?」
「うん。」
ゆるく交わされていく言葉たちは、先ほどよりももっと彩度を落とした藍色に近い紫色の空気の中へ、浮かんでは消えていった。
「せやけど、嫌いやないねんなぁ。」
「うん、私も同じ。」
「なんや、励まされてる気分になんねんな。」
「私ね、たまに哀しくなる時とか、ここで夕焼け見るんだ。そうするとね、明日も頑張ろうって思えるんだ。
よくわからないんだけど、たまに無性に哀しくなる時があるの。そういう時ね、
今白石が言ったみたいに、夕焼けが励ましてくれてるみたいに思うんだ。」
誰にも言ったことのない自身の思いを、独り言のように彼へ向けて呟くと、心はすぅと落ち着いた。
締め付けるような胸の痛みも、目蓋の裏で燻っている涙も、今はそんなに気にならない。
白石って不思議、そう呟くと、彼は目を丸くして、次の瞬間、また微笑んだ。
「も大概やで。」
軽く息を吐いて笑う彼は、すっかり暗くなった藍色の空間でもはっきりと視界に映った。
他人を目映く感じるのは、初めてのことで、少しだけ戸惑う胸も、何故だか愛おしい。
「俺たち、似たり寄ったりやな。」
「白石も、私と同じような気持ちになったりするの?」
「せやな、こんなん言うの照れくさいねんけど、たまになと同じように哀しくなる日とか、あるんや。
そういう時は、がむしゃらに走ってみたりとか、とっとと寝てしもうたりとかしとったけど、
夕焼け見るってのも悪くないねんな。」
風になびいた髪を掻きあげて、彼は目を細めた。消えそうで、其処にある表情。
少し強く吹いた風は、まだ私たちの髪を揺らし続けている。彼の長めの前髪が左右に何度か揺れる。
さらさらと音さえ聞こえてきそうな程に、曖昧で不安定さを孕んだ光景は確かに存在するリアルな現実なのだ。
「は、たまに…、」
「うん?」
「ホンマたまにやねん、なんやいつもと違う顔してる時が、あってんやんか。
せやから、それがずっと気になってたんや。
けど、今日わかったわ。哀しゅうなっとったんやな。」
そう言って白石は、微笑った。あたかかい何かに包まれていくような心地よさを感じるのは、やはり彼独特の雰囲気のせいなのだろうか。
それとも私自身の気持ちに変化が起きたのだろうか。
自身でよくわからない感情に、名前を付けるとしたら情愛だろうか。こんなにも安心するのは、そのせいだろうか。
「せやけど、なんで哀しくなるん?」
「んー、わかんない。」
「はは、なんやねん、それ。」
「だってわからないんだもん。ただ、なんとなく不安になる。」
「…は、一生懸命生きてるんやな。」
ポツリと前を見て白石が呟いた。その言葉は私の心の中でおおきな糧となって、これからも時折襲い来るであろう痛みを受け入れる器になっていくのだけれど、
私はまだそれに気付けなかった。
「それは白石でしょ?白石が、沢山頑張ってるの知ってるよ。」
「ほな、お互い様やな。」
暗くなった風景に映える笑顔を浮かべて、彼は言った。心地良い声音が、私の鼓膜を刺激する。
ゆるやかに吹く風は、依然として二人の髪を揺らし、色々なマイナスの感情だけを攫って、あたたかさを残して去っていった。
小さく息を吐いて、彼は立ち上がった。既に空からは赤みが消えて深い群青色へ姿を変えていた。
ちかちかと輝き始めた星々を背に、彼は今日見た中で一番あたたかくて柔らかな深い笑みを浮かべ、私の頭を二度、三度撫でた。
「ほな、もう暗なったし、帰ろか。」
「…うん、そうだね。」
「今日は良い日やったわ。」
「私も。」
「新しいを発見出来たしな?」
「ふふ、私もね。」
顔を見合わせて微笑み合う私たちは、今までと少し違う距離感を保っていくのだろう。
頼りなく揺れる街灯に照らされて出来る二人分の影がゆるく残っていく、ある初夏の黄昏時の話―――
藍色の世界で
明確に浮かび上がる
星のように、
(きみが僕の背中を押す)(あなたが私の背中を押す)