には好きな人がいた。それは同じクラスの白石蔵ノ介という人物だ。 一体いつから好きになってしまったのか、自分自身でもわからなかった。 元々、白石がテニスをしている姿を見るのが好きだった。 ただ直向きに前だけを見て、一心不乱にボールを追う姿は、彼女の目に眩しく映った。 彼が周りの女の子たちに人気のある人物だということは、恋愛に関して疎いでも知っていたし、
ルックスに対して興味のないでも、彼は整った顔立ちをしているとわかっていた。
帰宅部のは、放課後は大概教室に残って窓からテニスコートを眺めていた。 放課後は一番窓際の席へ座り、窓越しに白石がテニスをしている姿を見ることが彼女の日課となっている。 確かに己の中に存在する恋心は、ただ見ているだけではいけないとを叱咤したが、それに気付かないふりを続ける。 クラスが同じだっただけ良いと思う。 時折、言葉を交わせて、運が良ければ日直が一緒になったり。それだけで今は十分なのだ。 いずれ来るのだろう、気持ちを伝えたくなる日が。今以上を願う日が。それまでは現状で満足出来ている。


春の割に蒸し暑い空気が淀んでいる教室で、いつも通りに窓際の席で頬杖を付きながらテニスコートを見やって、は気付いた。 白石の姿が見えないのだ。 自分でも面白く感じる程に、彼女の目に白石はいつだって真っ先に飛び込んでくるのに、今日はいくら目を凝らしても見あたらなかった。 おかしいな――  そう思った直後だった。の聴覚へ、すんなり伝わってきた風のように透き通った声は、まさしく白石のものだった。
「あれ、さんやん。」
何度も意識して聞いている声、他の誰よりも心地良いその声音に、は勢いよく振り向いた。
「し、白石くん…。」
「あー、すまんなぁ、驚かしてしもたみたいで。」
「あ、ううん、平気っ。」
白石はの言葉に柔らかく微笑むと、自身の席へと向かった。
「…白石くん、部活は?」
「んー、ああ。忘れ物してん。」
引き出しへ向けていた顔をあげて、白石は苦笑した。
は自分の心臓がうるさく鐘を鳴らすのを感じていた。徐々に速度をあげていく鼓動が、無意味に自身を焦らせていく。 彼と話す時はいつもそうだった。慣れない感覚は、彼女から平常心を奪い頬を上気させていった。 だからなのか、は白石を見ているだけの方が好きなのだ。 見ているだけなら、心臓は小さく音を鳴らすだけで、彼女に何かを知らせるようにうるさく鳴り響いたりしないのだから。

「ところで、さん。」
「はっ、はい!」
突然声をかけられたことで、は姿勢を正し上ずった声をあげた。 白石はそんな彼女の動作に、くすりと笑うと、腕を組み首を傾げ彼女に質問を投げかけた。
「自分、帰宅部やろ?なんで帰らんと、教室に残っとるん?」
「え、と、それは…。」
口ごもるを白石は真っ直ぐに見つめている。 その瞳は、テニスをしている時と同じ真っ直ぐに澄んだ色をしていて、はまるで魔法にかかったかのように目を逸らせなくなった。
さん、いつも教室に残っとるやろ?」
「え、なんで知って…。」
「テニスコートからよく見えんねん、この教室。」
すい、と指を窓の外のテニスコートに向けて、白石は悪戯に笑った。少し日に焼けた肌に白い歯が映える。 高鳴っていく胸が煩くて、上気していく頬が気恥ずかしくて、は顔を伏せた。 なんて言おう、どう誤魔化したらいいんだろう。本人を目の前にして、『白石くんの姿を見ていました』だなんて言えるはずがない。 幾つもの言葉を脳内に浮かべていくのだけれど、丁度良い理由は見つからなかった。
「えぇと、ね…。」
「うん?」
真っ直ぐな瞳から、逃げられない。テニスをしている時の表情がまさか自分に向けられるとは、思ってもいなかった。 自分が白石に惹かれた最大の要因が、今こうして目の前に浮かんでいる。 その事実は、これまでに起きた何よりもを動揺させ、その脳から冷静さを奪った。
「…テニスコート…。」
「ん?」
「テニスコート…見てた…。」
私の負けだ―― 何かを競っていたわけではなかったが、そう思った。 彼の真っ直ぐな瞳が好きなのだ。もちろんそれ以外にだって好きなところは沢山あったが、何よりも彼に惹かれたのは、 何にも揺るがないと思える程の強さを持った、その瞳だったのだ。 の言葉に、彼は目を細めた。優しい柔らかい色を帯びた笑みだった。 が口にした言葉に、戸惑ったのは彼女自身だった。 言ってしまった、気付かれてしまっただろうか。出来ることなら、自身が口にした言葉は、なかったことにしてしまいたい。 そんな思いだけが、脳を駆けめぐっていく。 異様な焦燥感だけが、高まっていくのは、彼女の中に不快感を伴った。

「なんでテニスコート見とったん?」
「…え、と。」
白石の言葉に上手く返せない。これ以上、白石と二人っきりの教室に居れば、まだ伝えたくない言葉でさえ口にしてしまうだろう。 ぎこちない沈黙だけが続く。 白石は、変わらない真っ直ぐな瞳を、へと向けている。 彼女はその瞳から逃げるように、席を立った。


「あ、の。私…用事があるから、帰らなくちゃ。」
言いながら、が机の横にかけてある鞄を抱き上げる。 ごめんね、白石くん。僅かに開いた唇から発した声は、掠れた声となり白石の聴覚へと伝わった。 自身の脇を通り抜けようとするの左手を白石は己の右手で掴むと、は立ち止まりその大きな瞳を白石へと向けた。
「…テニス部に好きな奴でもおるん?」
唐突に投げられた問いかけは、の核を突いた。隠しきれない動揺が、彼女の表情に表れていく。



窓の外から運動部の威勢の良い声が教室内へと飛び込んでくる。 笑い声や、掛け声、色々な音が混じったそれらは、狭い教室内で小さく木霊していった。 風景が濃いオレンジに染まっていく。電気の消えた教室内も、夕日の色を帯びている。 白石は、の腕を掴む手のひらに力を込めた。逃がしはしない、と、徐々に力を強めていく手のひらは、そう言っているようだった。

「…好きな人、おるん?」
もう一度、彼の掠れた声がを追いつめていく。



もう逃げられない。



は、負けを認めるように首を一度縦に振ると、顔をあげた。
『白石くんが…好きです…。』
小さな口から溢れた言葉に、白石は満足そうな笑みを浮かべ、「その言葉が聞きたかったんや。」とにしか聞こえない程の声で呟いた。


イン・トラップ

私は最初から彼の仕掛けた罠にかかっていた




「あの日、戻ってくるん遅いって、小石川にめっちゃどやされたんやで。」
「わ、私のせいなの?」
「せや、がなかなか俺が好きやって言わへんからやで。」
「だ、って…言いたくなかったんだもん。」
「俺は聞きたかったんや。」
「…白石くんから言ってくれたら良かったのに…。」
「過ぎたこと、とやかく言ってもしゃーないで。」
「それは白石くんもでしょ。」
「その白石くん、っちゅーの嫌やなぁ。」
「…白石くん、我が儘…。」
「あ、また言うた。」
「…そんなすぐに変えられないよ。」
「俺はって呼んどるのに。」
「白石くんが、柔軟過ぎるんだよ。」
「…はいはい、ほら蔵ノ介って呼んでみぃ?」
「………、白石くん。」
「強情なやっちゃなー。」

「もう諦めた方がええで…。」
重ねられた唇から、もう逃げられないと知る