「白石君。好きです、付き合って下さい。」
不意に廊下の奥から聞こえてきた言葉に、足が止まった。
世界中の音が消えて、私は暗い暗い闇の中へと堕ちていくように、一瞬思考が停止した。
『白石くん。好きです、付き合って下さい』
名前も知らない相手が告げた名前と言葉が、どれ程の打撃を与えたのだろう。
ほんの僅か、正常に機能する思考の片隅で、こんなにもショックを受ける自分を可笑しいと感じる自分がいた。
彼に想いを寄せる子が少なくはないことは、知っていた。
そして自分もその一人なのだと自覚していた。だからこそ、こんなにも哀しくて苦しいのだ。
堕ちていく。足下の地面が消えて、暗い黒い底へと、降下していく。
世界中の音が消えた気がした。私の視力は何処へ行ってしまったのだろう、何も見えない。
「…?」
不意に呼ばれた自分の名前に、意識を取り戻す。視力が急激に戻ってくると、視界には白石の顔だけが映っていた。
「し、白石?」
どれ程の間私は呆然と立ちつくしていたのだろう。先ほどまで廊下の奥にいた彼は、今私の目の前にいるではないか。
「あ、戻った。なんや、いくら声かけても動かんから、立ったまま気ぃ失うとるのかと思ったで。」
「ご、ごめん。ちょっとボーっとしてて。」
へらりと情けない笑みを浮かべてみせる。自分は意外にも器用だったらしい。あれだけのショックを受けていながら、今本人を目の前にしても笑えている。
「…ん?」
白石が目を凝らすようにして、ぐいと顔を近づけてくる。訝しげな瞳をしている。間近に迫った彼の淡い茶色の瞳の中に自分の姿が見えた。
彼の瞳に映る自分が少しぼやけている。
「、泣いとったん?」
「え?」
指摘されて、自分の目蓋から頬までを指でなぞってみると、確かに湿っていた。
いつの間に私は涙なんて流していたのだろう。そんなこともわからなくなる程のショックだったのだと自分の中での現実感はどんどん増していく。
「……なんで泣いとった?」
普段聞かない、低くて掠れた声。それなのに優しい声音は、私の中の何かをちくちくと刺激していく。
「…なんでだろうね。」
はぐらかすようにして、まだ少し湿っぽい目蓋を指先で擦る。少しだけ痛いのは、それだけ泣いていたということなのだろうか。
目、擦ったらあかんで。優しく微笑み、彼は私の手首を掴んだ。骨張った白石の指は、それだけで私の涙腺を刺激していく。
優しくされるのは嬉しい、けれど今はそれが痛い。嬉しいはずなのに。そういえば、彼が私に触れるのはこれが初めてだ。
自分の目蓋が湿っていくのを、今度はちゃんと感じることが出来た。
突然泣き出した私に、彼は慌てて声をあげた。
「あ…、すまん。泣かせるつもりじゃ…」
「ちがう…ごめん、白石のせいじゃないから。」
そうだ、悪いのはここまで好きになってしまった私だ。
優しい彼を、周りに好かれている彼を、どうしようもないくらい好きになってしまった私がいけないのだ。
泣いてるところなど、見せたくない。自分が涙すると、元々少しも可愛くなどない顔を更に不細工にするのだとわかっている。
止まれ止まれ、そう頭の中で何度も呟く。けれど、涙は私の気持ちとは裏腹に一向に止まる気配を見せなかった。
嗚咽が漏れないように、必死に唇を噛みしめる。
「…、唇噛んだらあかん。血ぃ出てまうで。」
掴まれたままの手首が痛い。優しくゆるく掴まれているだけなのに、何故だか痛くて仕方がない。
伏せた顔を覗き込むようにして屈んだ彼。淡い茶色の瞳と交わる私の視線。
痛い痛い痛い、手首も胸も頭も喉も目もぜんぶが痛い。
苦しくて、死んでしまう。そう思う。
『しらいし』
口を動かして彼の名を紡ごうとしたが、それは嗚咽に紛れて言葉にはならなかった。
けれど、彼はそれでも私が名前を呼んだのがわかったらしく、小さく頷いた。彼の瞳が、どうしたと優しく尋ねてくる。
「さっき、告白…、されて、た…でしょ?」
「…見てたん?」
「…ううん、聞こえただけ…。」
「そうか…。」
そういえば、彼があの告白になんて応えたのか聞いていなかったな。泣き疲れた脳の隅でそう思う。
けれど彼の返答は、どちらでも良いと思った。応えてあげたとしても、断ったのだとしても、どちらにしろこの恋に伴った痛みは消えそうにない。
「…あの子にな、付き合うてくれ言われたんやけど、断ったんや。よく知らん子やったし、俺には好きな子がおんねん。」
ちくちくと断続的に痛む体中が、だんだんと私の感覚を奪っていく。
白石の体温が、感じられない。私の視界に映る優しい瞳が、涙で濁っていく。
自分でも驚く程に、大粒の涙が次々と双眸から溢れていく。嗚咽がこらえきれずに漏れてくる。
全身の力が抜けて、廊下へと座り込む。膝の上に自分の頭を乗せて泣く私は、駄々をこねる子供みたいだ。
『好きな子がおんねん』
その言葉は、私の体内にずっしりとのし掛かってきて、心臓を押しつぶす重石となった。
白石には好きな子がいたんだな、どこか冷静な自分がそう客観視を始めるけれど、それよりも強くはたらくのは素直な感情だった。
哀しいのだ、知らない子が彼に告白していた事実よりも、もっと。彼に好きな人がいる。
きっとそれは私ではない、もっと綺麗で可愛くてスタイルも良くて白石の隣が似合う女の子なんだろう。
しゃくりあげる私の声だけが、静まりかえった廊下に響いていた。
「…なぁ、泣かんとって。」
座り込んでしまった私に合わせるようにして、彼がしゃがみこみ私の頭をぽんぽんと叩く。
子供をあやすみたいに、優しく何度も。
涙で制服が濡れている。涙でぐしゃぐしゃになった顔をほんの少しだけあげて、白石の顔を見ると眉根を下げながら微かに笑っていた。
好きだな。そう思う。
諦めきれそうにない、いつだって優しい彼が、今こうして私の傍で頭を撫でてくれた白石が好きなのだ。
「……なぁ…、俺が告白されたん、そんなに悲しかったんか?…俺に…、俺に好きな子おるんが、泣く程悲しかったん?」
静かに、なんとか聞き取れる程の小さな声で言葉を紡いでいく白石の瞳が揺れている。それは私が泣いているせいなのだろうか。
「…もし、そうなら、俺…期待してまうで。ええの?」
見たことのない表情、強いて言うなら切な気で、まるで何かに追いつめられているような、そんな顔をして白石は尋ねた。
独白にも似た質問は、私の脳天に響くまでに数十秒を要した。
「…期待って…。」
「そういうことや。」
「…どういう、こと?」
心臓がまたうるさく鐘を鳴らし始めた。徐々に速度をあげていく。
まだ止まらない涙が、ゆっくりと頬を伝っていく。泣き顔を見られたくない、そんな思いがどこかへ消えて、私は知らないうちに顔を上げていたようだ。
「…俺のこと、好きやねんな?」
膝に押しつけていたせいでくしゃくしゃになった前髪を彼の骨張った指が掬い上げた。
泣き続けて腫れぼったくなった目蓋が熱い。滲んだ視界に、白石の顔だけははっきりと映った。
片眉だけを下げて微笑む彼の瞳が、真っ直ぐに私の視線と交差する。
「……白石は…好きな子いるんでしょ…?」
「まだわからん?それともわざとか?」
ゆっくりと唇を動かしていく。きれいな笑みを浮かべた彼が紡いだ言葉。
俺が好きなんは、やで。
響け届け きみに
奏で届く あなたから
「…え?」
「せやから、俺が好きなんはなんやて。」
「…嘘」
「…嘘ついてどないすんねん。」
「だって、」
「だってもクソもないやろ?」
「…白石、クソは汚い。」
「なんや減らず口叩いて。泣くほど悲しかったんやろ…?」
「…白石には敵う気がしない…。」
「ははっ、それは光栄やなぁ。」
「好きやで、。」
「…うん、ありがとう。私もです。」