幸せは、私のすぐ傍にあった。
いつだってそこら中に転がっていた。見つけることが難しいだけだ。
そんなことに気がつかず、いくつもの幸せを見逃して、取りこぼして、失くしてきたのだろう。
空が高くなったと感じる。そういえば、夏が終わってもう数ヶ月が過ぎている。
朝の空気は、少しひんやりとしていて澄んでいる。
見慣れた通学路を歩きながら、おおきく息を吸い込んだ。
体の芯から目が覚まされていくような、そんな朝だった。
「おはよーさん」
声をかけられて振り返る。
「おはよう、白石くん」
「ええ天気やなぁ」
「ね、気持ち良い」
私の言葉に頷いて彼は一度深く笑った後、おおきく伸びをした。
頭上の木の上で鳥がさえずる。濃密な香りを含ませた風が抜けていくのを肌で感じる。
「なんや、今日機嫌良さそうやな」
何か良いことでもあったのか、と彼は続けた。
スキップをしていたわけでも、歌を口ずさんでいたわけでもなかったけれど、他人にそう見られているということは
今日の自分は些か浮かれているのかもしれない。
「私、いつもそんなに機嫌悪そうかな?」
「はは、すまん、そういうわけやなかってんけど。なんや今日はそんな感じがしただけや」
思い過ごしだったか、と彼は苦笑した。
秋風に揺れる淡い茶色の髪が、朝の陽の色を透かしてキラキラと光る。
長い睫も、夏の日焼けが少し落ち着いてきた肌にも、陽の光が映っている。
「白石くんって、ほんとカッコいいねぇ」
思わずこぼれた言葉に、彼は噴出した。
「なんや突然。褒めてもなんも出ないで」
「あはは、ごめん。でもそう思ったから」
「いや、褒めてもらえるんは嬉しいねんけど…なんや照れるなあ」
はにかんで下がる目尻に刻まれた皺のひとつひとつさえも、なんとなく特別に思えた。
やはり今日の自分は浮かれているのだろう。
「ふふ、今日は私浮かれてるみたい」
「さよか」
まだ少し照れた面持ちで、彼は頷いた。
「なんか気持ちいい天気で嬉しいからかな」
透き通るような水色に、濃い秋風。深い木々や花実の香り。隣からは心地よい声音と、いつも通りの朝。
なんてことない平凡さが今日はやけに嬉しい。
一日が始まっていくこと、終わること。歩いていること、言葉にすること。
そんな当たり前のことで溢れている毎日の中で、いくつもの彩りを見つけられる。
平凡であることこそが、幸せなのだろう。
今までにいくつの幸せを見逃してきたのだろう。
もう取り戻せないそれらを思うと少し勿体無いような気もするけれど、それでも今がある。
「さん」
「ん?」
「さんも可愛えと思うで?」
「あはは、何それ、仕返し?」
「いや、冗談とかやなくて、俺はずっと前からそう思っとったで」
交わる視線の間を秋風が抜けていく。
陽の光を混ぜた瞳はきらきらと輝いていた。
Romantic
なんてことない日が、特別で。
幸せはそこら中に転がっていた。
見逃して、取りこぼして、失くしても、傍にあるのだ。
気付いたときから、世界は始まっていた。