桂花の日




いつからだろう。 誰か一人のことをこんなにも想うようになったのは。そして、そんな感情を恐れるようになったのは。 もっと幼い頃、それこそ両の手で足りるほどの年齢の頃は今より素直だった。 好きなものは好きだと何の躊躇いなく受け入れていたし、誰かを好きになると気持ちが弾んだ。 今とは違う。今はただひたすらに怖い。



休日練習を終えて、家への道を歩く。大通りに面しているからか、雑然とした音が溢れていた。 普段なら耳障りに感じるそれらも、この快晴なら気にならない。 すっかり空が高くなり、風が運んでくる香りもどことなく秋らしさを感じさせた。 覚えのあるほのかに甘い香りを胸に吸い込んだ時だった。

「あ、白石くん。」

後ろから聴こえた声に、俺の心臓は大きな音を立てた。 次いで覗き込むようにして右隣から覗いた顔に、心臓が勢いよく速度を上げていく。

さん、…えーと、どないしたん?…こんなとこで。」

この動揺を悟られないように、努めて普段通りの態度で言葉を選んでいく。 心持ち頬をあげて笑顔を作り首を傾げてみせれば、きっとこの動揺は彼女に伝わらないだろう。

「お母さんに買い物頼まれて、ちょっとそこのスーパーまで行って来たところ。」

そう言われて、やっと彼女が両手におおきなスーパー袋を提げていることに気が付いた。 そんなことにも気が付かない程に自分が緊張していることを実感して、息が漏れる。 彼女の前では、いつもそうだ。 試合前に感じる一種高揚した緊張感とは違う、言うならば恐怖のような緊張感が離れなかった。

「白石くんはー…部活帰りだよね。」
「ああ、せや。」
「毎日ご苦労さま。」

彼女が浮かべる柔らかい笑みが、まるで麻薬のように俺を蝕んでいく。 囚われて、離せなくなる。

「はは、そんな労われる程のもんやないで。」

同じように笑みを作って、肩にかけたスポーツバッグを背負い直した。 揺れる空気が、また甘い香りを散らしていく。 なんの香りだっただろうか。そう考えながら、彼女の手元のビニール袋に目をやった。

「重そうやな、それ。」
「あはは、今日はカレーなんだって。」
言いながら彼女は袋詰めされた野菜を取り出して笑った。
「それ、持つわ。」
「え?いいよ、大丈夫!そんな重くないよ?」
「ええから、せめて一つだけでも持たせてや。な?」

点数稼ぎだとか、そういうつもりではなかったけれど、少しわざとらしかっただろうか。 ただ袋の持ち手が、手のひらに食い込んでいるのを見て、放ってはおけなかった。 ゆっくりと彼女の手から袋を受け取る。その際に触れた指先が俺の心臓を跳ねさせたけれど、動じるわけにはいかなかった。

「ごめんね、ありがとう。」
「ええよ、こういのは男の仕事やで。って言っても、一つだけで申し訳ないねんけど。」
「ううん、助かります。本当にありがとう。」

彼女が笑うたびに、空気が振動しているような錯覚に陥る。 今日に限ったことではなく、それは彼女と顔を合わせる度に感じていた。けれど、いつもと違う場所だからだろうか。 今日はやけに強い気がする。

「せやけど、やけに重いねんな。」
「うん…、日持ちする野菜ばっかりだから、どうせなら沢山買ってきてって言われて。お母さんってば1万円も持たせるんだもん。そんなにかからないのにね?」

笑い声をあげる彼女の隣で、同じように笑う俺は、どういう風に彼女の瞳に映っているだろう。 いつも通りに映っていて欲しい。 どうかこの気持ちに、気が付かないでいて欲しい。もっと素直に好きだと思えるようになるまで、もっとあたたかい気持ちで好きと思えるようになるまで。


「でもテニス部って、こんな時間まで練習してるんだね。朝からでしょ?」
「せやな、休日はほとんどやなぁ。」
「テニス部、強いもんねぇ。」
「はは、自慢の部員たちやからな。」
「ふふ、白石くんはその部員さんたちを束ねる部長さんでしょ?」
すごいね。
そう言って彼女はまた笑った。俺の瞳に色濃く映し出されるそれが、あまりに幻想染みていて、俺はまた怖くなる。

「はは、煽てても何も出ぇへんよ?」
「ううん、煽ててるとかじゃなくて、本当にすごいと思って。」

笑みを残したまま、彼女の瞳が俺を射抜いた。 一瞬のはずが、いやに長い時間に思えるほど、彼女の瞳は澄んだ色をしていた。 心臓が早鐘を鳴らしていく。このまま心臓が機能を止めてしまうのではないかと思うほどに苦しい。 どうしてこんなにも怖いのだろう。人を好きでいることを楽しめなくなったのはいつからだろう。



「あ、金木犀。」

突然、彼女が立ち止まった。小さな公園の前だった。 彼女が口にした名前に、そういえば先ほどから舞っている甘い香りは、この花のものだったことを思い出した。 葉の間にいくつもの橙色の蕾をつけた姿が、華やかなのにどこか慎ましやかで好ましく思う。

「金木犀の花言葉、知ってる?」
「『謙遜』『謙虚』『真実』…やったっけ?」
「そうそう。なんかさ、白石くんっぽいね。」
「…え?」

橙色の花と緑の葉が、風に揺られてさわさわと音を立てた。 その度に舞う香りはまるで俺から思考を奪うように濃く、体いっぱいに甘い香りが満たされていくような気がした。

「白石くんは部長だし、すごく強いのにさっきも謙虚だったし。」
「そんなことないねんけど…。」
「あ!あとね『変わらぬ魅力』っていうのもあるんだって。ますます白石くんっぽくない?」
「せやろか…?」
「うん。白石くんのそういうところって、ずっと変わらないもん。謙遜しすぎは良くないけど…、」

そこで一旦言葉を切った彼女は、金木犀に向けていた真っ直ぐな瞳をこちらに向けた。

「でも、私はそういうところが白石君の魅力だと思うよ。」

会ったときから絶やさない笑みを、より一層深くして、彼女は言った。 滑らかに吹く風に揺られて舞う金木犀の香りと、その中にある彼女の笑みが、体中に蔓延していくような気がした。 それらに押しつぶされそうな心臓が、痛くて苦しくて、それなのに捨てきれない。



「家まで送ってくれて、ありがとう。」
「ええって。日が落ちるのも早うなったし、女の子一人で歩かせるわけにはいかへんって。」
「今度お礼するね。」
「気にせんでええよ。…こちらこそ、今日はありがとうな。」
「褒めたことだったら、お礼言われることじゃないよ?」
「せやけど、嬉しかってん。お礼くらい言わせてや。」
「そうかな。じゃあ、おあいこってことにしよう?」
「…せやな。」
「じゃあ、また明日。学校でね。」
「また明日。」

軽く手を振って、彼女は玄関の扉を開けた。明るい声で帰りを告げながら、彼女は扉の奥へ消えていった。彼女の背中が見えなくなってから、俺は長く息をはいた。 まだ苦しい心臓も、いつかあたたかさで満ちるだろうか。この怖さはなくならないだろう。それでも、この恋を上手く抱えられる日が来るといい。 そんな日が来るように、明日はもう一度彼女にお礼を言おう。そしてもう少し、彼女と話をしてみよう。 いつの日か、この気持ちを上手に抱えられるようになったら、その時に彼女に伝えたい。それは遠くない未来に、きっと俺に訪れるだろう。

桂花の日
(苦しさの中にあるあたたかさを見つけた日)