それはまるで初夏を思わせる暑い昼下がりだった。 カラカラと乾いた空気が、太陽の熱に魘されて更に温度を上げていく。 グラウンドに照りつける光が、湿気を帯びて反射して肌に張り付く。 その感覚が好きだった。体内から目を覚ましていくような、光る木々に癒されていくような。

一日の最後の授業が終わりの鐘を鳴らしたのは、ついさっきだ。 それぞれの予定に席を立つクラスメイトと、数回言葉を交わして、そのあと周りと同じように机の横にかけられたおおきなスポーツバックを肩にかけて部室へと向かった。 外は、風が吹いている分、教室よりも幾分か涼しい。 下駄箱を出ると、数メートル先に見慣れた後ろ姿を見つける。 栗色の長い髪を束ねて高い位置で一つに結んでいる、毛が柔らかいのだろうか、ふわりふわりと揺れる毛先の一本一本が浮かぶように映る。 胸が一度ドキリと高く鳴る。誰か一人にこんな気持ちを抱いたのは、いつ以来だろうと思考を巡らせている内に、歩き続ける彼女の姿が遠のいていく。 声をかけようと、慌てて下駄箱から靴を取り出し、投げるようにして地面へと落とした。 靴の踵をつぶして、ずり落ちてきたスポーツバックを掛け直す。
っ!」
「…?」
叫ぶようにして名前を呼ぶと、彼女は栗色の髪を揺らして振り向いた。その瞳は、不思議そうに丸くなっている。
「あ、白石か。誰かと思った。」
俺の姿を見ると、彼女はにこりと笑って足を止めた。 笑顔が眩しいだなんて、胸が苦しいだなんて、暇つぶしに妹に借りて読んだ少女漫画の世界の中だけだと思っていたのに、今の自分はどうだろう。 彼女の動作ひとつにいちいち動悸を速め、言葉に一喜一憂して。あの甘ったるい少女漫画と似たり寄ったりだ。
――俺も大概やな
自嘲気味に笑い、彼女へと目を向ける。彼女は柔らかい笑みを浮かべて、俺の方へと歩み寄ってきた。
「どうしたの、部活は?」
「あ、ああ。今から行くで。」
「そう。頑張ってね。」
「お、おお。もちろんや。」
声が上ずっていく、情けない――けれど、この気持ちに嘘など付けない。
「で、何か用事?」
小さな頭を傾げて、彼女はまたひとつ微笑んだ。制服のスカートの裾がふわりと動きに合わせて揺れる。 白い肌が露出をおおきくするのを視界の端に捉える。いやに扇情的で、見てはいけないものを見てしまったような、そんな気持ちになり目を逸らした。
「え、用事て?」
「声かけてきたから、何か用事があったのかと思って。」
笑みを絶やさずに彼女は、優しく声を紡いだ。柔らかな栗色の髪に似合う、ふんわりとした声。 心地良いトーン。 彼女のひとつひとつの構造に気付く度に、彼女への想いは募っていく。 自分はこんなにハマりやすい質だったのだろうか、こんなに人を想えるものなのだろうか。
――そんなこと、どうだってええ。
自問自答を繰り返す。好きなのだ、どうしようもないくらい。それなら、その事実だけで十分じゃないか。 それ以外、どうしようもないのだ。
「あー、用事な。用事。」
正直、用事なんてなかったのだ。ただ姿を見たら声をかけなくてはならないと、思っただけなのだ。 部活の前に、少しでいい。彼女との時間を過ごせたら、なんて。
(俺おかしなったんとちゃうやろか…こんなんあの少女漫画と同じや…。)
(自分が気持ち悪いで…。)
用事、用事、と呟きながらぎこちなく言葉を紡ごうとする俺を、彼女は真っ直ぐな瞳で見ていた。 嘘の用事を作り上げるのに、俺はいくつもの言葉を頭の中で選んでは消していった。 刻々と部活の時間は迫ってくる。早く何か言わなければ。彼女に情けない姿を見せるのも、部活に遅れるのも、どちらも格好悪い。
「えーとな、…せや、帰りの挨拶や!してなかったな、思うて!」
我ながら苦しい言い訳だと、言ってから気付く。兎にも角にも彼女の姿を見ておきたかっただけなのだ。 好きだと気付いてから愛らしさを増して見える顔と、柔らかな声音を聞きたかっただけなのだ。ただ、それだけだ。 俺の苦し紛れの嘘の用事に、彼女はくすりと一度笑うと、小柄な体格に見合った小さな鞄を掛け直した。
「あはは、わざわざ挨拶のために?」
「そ、そうや。挨拶は大事やし、なぁ。」
「ふふ、そうだね。」
くすくすと、小さく肩を揺らして笑う彼女が、ひどく眩しい。 このまま抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。その小さな体を己の腕の中に収めてしまいたいと、その髪を梳いて、その唇を己のそれで塞いでしまいたいと。 徐々に強くなる衝動を抑えるために、拳を一度ぎゅうと強く握りしめた。

「じゃあ、白石。また明日ね。」
にこりと笑みを深くして、彼女は片手をあげて、ひらひらと二度、三度振った。
「おお、またな。」
別れが寂しくて、まだ物足りなくて、胸が抉られるような感覚を味わう俺は、上手く笑えているだろうか。 彼女はもう一度深く笑うと、ひらりと栗色の髪と、スカートの裾を揺らして、背を向けた。


高鳴る胸は、確かに彼女への恋心を孕んでいた。 彼女の姿を見る度に、言葉を交わす度に、自身の中で質量を増していくそれはひどくもどかしくて、苦しくて、けれど愛おしくて。 言ってしまえたら、どれ程楽になるのだろう、なんて。女々しい自分が可笑しくて、情けなくて。 盛大なため息をついて、部室へと足を向ける俺の心は、それでもどこか弾んでいた。



その花を

咲かせるのは


(まだ蕾でしかない僕の花は、いつか綺麗に咲き誇れるかな)