夏が近づいてきている。太陽の光は一段と輝きを増して、俺の背を強く照らした。 今日こそは、と意気込んで教室のドアを開いた。 探さなくてもすぐに目に入ってくる、想い人の姿。 その姿を見ただけで、熱が上がったかのようにくらくらしてしまう。
(あかん…、重症やで…。めっちゃ可愛い…)
(こんなん…なんやねん、ラブコメか)
自分の狂ったような思考回路に鞭を打つ。 自分が可笑しくて、変な笑いさえこみ上げてきそうだ。 この気持ちに『恋』という名前を付けてから、俺のネジは何本か抜けてしまったのではないだろうか。 そう思いたくなる程、今の自分が傍から見なくても可笑しいことはわかっている。 けれど、実際、気が苦しそうな程、好きなのだ。 焦がれて止まないのだ。
鞄の中にしっかりと閉まったひとつの綺麗にラッピングされた箱。 彼女に声をかける前に、頭の中で今日告げる言葉を繰り返していく。

(予行練習はバッチリやってん、俺は出来る…)
自己暗示を存分にかけて、一歩ずつ自分の席へ座り頬杖を付きながら窓の外を眺めている彼女へ近づいていく。 窓から入る陽の光で長い睫毛が目の下に薄く影をつくっている。 その横顔でさえ、濃密に俺の中に残るのだ。髪の一本一本も、指の動きも、瞬きをしたあとの少しぼんやりした顔も、ぜんぶ。

「…。」
彼女の目の前に立ち名前を口にしたが、それは情けなく上ずった声になった。
(あかん…声裏返った…、だっさ…)
「あ、白石。おはよ。」
「ああ、おはよう。」
彼女は俺の気持ちなど知らずに、変わらない笑みを浮かべて俺をその大きな瞳で見上げた。

「ちょっと、な。朝礼の前に、話があんねん。」
「?うん、なに?」
小首を傾げる姿が、いっそ憎らしいと思える程に愛おしい。 不思議そうに、疑問符を浮かべる彼女の手を掴み、席を立たせると、教室内がざわついた。 そんなことは元より承知なのだ。周りなど気にしていたら、この恋は変わることなく終わっていくだろう。
(そんなん、嫌や。)
ざわつく教室を早足に出て、人気のない音楽室まで彼女の手を離さずに辿り着く。
「ねぇ白石、どうしたの?白石、鞄持ったままだよ?」
「…あんな、俺が今から言うこと、真面目に聞いてくれるか?」
「うん、なに?」

言わなければ。緊張と、焦りで、足下がぐらついていく気がした。 あれ程頭の中で繰り返した言葉は、無言の状態が続くのに伴い、徐々に霞んでいった。 それが余計に俺を焦らせる。 言葉が出てこないとは、まさにこういうことを言うのだろう。喉の奥まで出かかっているのに、どうしてかそこから先へとあがってこようとしない。

「白石?」
俺の様子がおかしいことに気付いたのか、彼女は心配そうな瞳を向けた。
(好きな子に、こないなとこ見られて、俺もうフられるやろなぁ…)
ふ、と自嘲気味な笑いが漏れる。 この恋が叶うかどうかなんて、半分以上賭けなのだ。最初からわかっていたのだ。 それならば、何を今更躊躇うことがあるのだろう。 自分の中で悲観的な感情が大きくなったことで、決心がついた。情けないけれど、それが今の俺に出来る精一杯だった。

「あんな、これもらって欲しいねん。」
肩にかけたままの鞄の中から、綺麗にラッピングされた小さな箱を取り出す。
「…私、誕生日でもなんでもないよ?」
「ええねん。そんでな、俺…。」
俺が次の言葉を紡ぐのとほとんど同時に彼女は、俺の手からその箱を受け取った。
のこと、好きや。」
小さな音を立てて、彼女の手から箱が落ちた。 彼女は口を開けて、しばらく無言でいた。そんな姿ですら可愛く見えてしまうのは、所謂『惚れた方が負け』というものか。 床に落ちたままの箱は、どちらが拾うわけでもなく、ただそこにずっと落ちていたままだった。

沈黙が続く。
(早うなんとか言うてくれ…やないと、おかしくなりそうや)
言葉を紡ぐ前より、後の方が心臓は早鐘を鳴らす。嫌な感覚だ。

「…あ、えっと、プレゼント落としちゃった…ごめんね。」
そう言うと、彼女は珍しく焦った様子でしゃがみこみ落ちた箱を丁寧に拾い上げた。 彼女が箱を手に取る仕草が、いやに丁寧で、まるで慈しむような手付きなので、期待をしそうになる。
(何期待しとんねん、はそういうヤツやねんて。だから好きになったんや…)
(期待したらアカン、フられた時、余計に哀しくなるだけや…)
「あ、ああ、ええよ。別に…。」
「え、と…あの…。」
「んでな、それ。」
彼女が大事そうに両手で包み込んでいる、箱を指さして『それ』と言うと、彼女は同じように箱を指さし、『これ?』と呟いた。
「そう、それ。それ、な、開けてみぃ?」
彼女の細い指がリボンを器用に解いていき、箱を開けた。 心臓の音が自身の中に響いて煩いのに、リボンの解けていく音も箱を開けるかさついた音も、いやに響いて俺の聴覚に伝わってくる。 箱を開け終わると、彼女は小さな声をあげた。
「白石…あの、これ。」
言いながら彼女が取り出したのは、小さなシルバーリングだ。 彼女に似合うものは何か、この気持ちをどうして伝えたらいいか、言葉だけじゃ足りない、それを補えるのは何か。 散々考えて、最終的に出した結論は、指輪をプレゼントすることだった。
「順序がバラバラなんは、わかっとる。」
「せやけど、それをあげたかったんや。似合うと思うて。」
「俺と付き合うてくれんくてもええ。せやから…、それだけでももらってくれへんか?」
昨夜、一晩中考えていた台詞とは、全然違う言葉が口から溢れてくる。 もっと甘くて、もっと格好良くて、もっとスマートな台詞だったのに――  口から出たそれは、情けなくて、格好悪くて、不器用だけれど、確かな本音。

「ホンマに…好きや。ずっと前から。」
沈黙が痛い。胸が苦しい。 もう、あの少女漫画と同じだとか、自分が気持ち悪いとか、格好悪いとか、どうだって良い。 少しでも気を弛めたら、泣いてしまいそうだ。 もしこの恋が終わってしまったら、もうしばらく恋なんて出来そうにない。それくらい、想ってしまった。

長い長い沈黙が続く。先に口を開いたのは、俺だった。
「…?なんとか言うて欲しいねんけど…。」
頷くか首を振るか、それだけでいい。何か反応を見せてくれないと、俺はどうして良いのかわからない。
「え、あっ、ごめん。その…。」
謝られてしまった。それはつまり、恋の終わりを示しているのだろうか。 覚悟はしていても、いざそうなると思いの外堪える。俯きたくなる顔を必死にあげて、笑おうと頬の筋肉に力を入れてみる。 が、上手くいかず、引きつった不細工な笑顔が出来上がる。 目の前に広がる校内が、色褪せてモノクロになっていく気がした。 いつもなら虹彩を散らすようにして輝いている彼女の姿でさえ、白と黒の二色でしか見えない。
「…ええねん…。わかっとったから。」
「あの、白石――」
「ホンマに、もうええねん。」
彼女が何か言葉を紡ごうとするのを手と言葉で制す。 彼女には悪いが、今は上手く笑えそうにないし、上手い言葉も出てきそうにない。 苦い笑いしか、作れないのだ。いつもなら、どんなに苦手な相手にだって器用に笑えたのに―― 
(失恋ってヤツは、予想以上に辛いもんやなぁ)
そうどこか遠くで思いながら、彼女に背を向けて歩きだそうとすると、彼女に制服のシャツの裾を掴まれた。
「白石っ!」
「…気にせんで、ええで。ホンマに。」
振り返ることすら出来ない、視界が少し滲んできている。今にも涙が流れ出しそうなのだ。 必死に振り絞った声だって、情けなく震えてしまっているではないか。 引き止めないで欲しい、今だけでいいから放っておいて欲しい。また明日になれば、少しは上手に笑えるようになっているはずだから――

「…白石、何か勘違いしてる。」
「…は?」
彼女が静かに紡いだ言葉に、思わず振り向いてしまう。目に溜まってきていた涙が、振り向いた拍子に一粒零れた。 慌てて零れた雫を己の指先でぬぐい取る。次々溢れそうだった涙は、驚きで止まったらしい。 左手で大事そうに手にした指輪を握りしめている彼女の顔が、真っ赤に染まっている。俯いていてもわかるほどに赤く。 再び速度をあげていく鼓動。期待と、不安と、驚愕と、全てがごちゃ混ぜになって、気持ち悪ささえ覚える。
「…私、別に白石のことフってなんかない…」
「せ、せやけど、ごめんて。謝って――」
「っそれは、驚きすぎて何も言えなかったからで」
「…そやったら、返事は?」
「…まだ、してないじゃない。」
彼女の声がか細く震えているのは、もしかしたら――― もし、そうなら――


「…私は、…白石のこと…好き、だよ。」


世界が色を取り戻していく。鮮やかに。彼女の栗色の髪も、きめ細やかな白い肌も、床にある小さな汚れすらもが、鮮やかに。 考えるより先に、体が動いた。めいっぱい伸ばした腕で、彼女の体を引き寄せると、彼女は俺の腕の中で小さな声をあげた。 力いっぱい抱きしめて、髪に額に手の甲― 彼女のあらゆるところへ口を付ける。 彼女はその度に俺の名前を口にして、戸惑ったような細い声を出した。

始業のベルが鳴った。それでも俺は構わずに人のいない音楽室の中で、彼女の名前をひたすらに呟いて何度も何度も好きだと叫ぶように紡いだ。


君しかいなかった

(遠回りした僕の恋は綺麗な花を咲かせた)




「白石、授業始まったよ。」
「知らん、そんなもん。それより、なぁ。」
「知らないって、もう…、なに?」
「もっかい好きって言うて。」
「っ!!言えない!」
「言うてくれへんと、キスするで。」
「…白石、泣いてたくせに…。」
「…あかん、それ言うたらお仕置きやで。」
「…ちょ、しらい――」
「黙っとき。」
軽く触れた唇は、甘くて柔らかくて   
(だっさい告白やったけど、…叶ったからもうええわ。)
僕は手にした幸福を噛みしめるのだ。