小さい頃の夢は学校の先生、ケーキ屋さん、お花屋さん。
両の手でも数え切れない程、沢山の夢があった。
芸能人になりたいとか、科学者になりたいとか、輝かしい未来に子供らしく憧れていた。
いつからか、夢を実現させるためには途方もない努力とほんの一握りの人が生まれつき得ている才能というものが必要なのだと、
わかった風な確信を抱いた。
そう思うと、自分がいかにちっぽけで魅力のない人間なのかを思い知らされているようで苦しくなった。
自己嫌悪と自己否定の繰り返しは、自分をどんどん追い詰めて切り裂いて、心をそして時に身体までもを荒らしていく。
そうして出来上がったのは、何に対しても諦めが付いて回る自己だった。
何をするにも、諦めが前提に在る。
どうせ、だって、私なんか。
つまらない人間だと自分で思ったところで、どうしようもない。
これも諦めなのだと、ため息を零す回数が増えたのは、一体いつ頃からだったろう。
世の中は相も変わらず忙しなく動き回る。それに程々についていければ、なんて、変に大人びてみたりする。
色褪せたわけじゃない、潤いがなくなったわけじゃない。
それならば、夢など在ってもなくても、さほど変わらない。
夏の光を満たした風が、髪を撫でるように過ぎ去っていく。
微かに鼻腔をくすぐる青葉の香りも、燦々と照りつける日光も、この身体は感じ取るのだ。
日常は、確かに私の傍にある。
夏休みに入って数日が過ぎた頃。
ふ、と学校に行ってみようと思った。人気のなくなった学校とは、どんなものなのか見てみたいと思った。
服を着替え、歩きやすいようにと一目惚れで買った赤い花飾りのついたビーチサンダルを履いて玄関の扉を開けた。
太陽の熱がアスファルトに反射して体中を循環していく。
夏だな、そう思う瞬間は悪くはなかった。
数日前まで制服で歩いていた通学路を私服で歩くことは、少しだけ違和感を伴う。
けれど、それが心地良い。
夏休みはいつになっても心が弾むものらしい。
見慣れた校舎が目に入ると、奥から活気のある幾つもの声が響いてきた。
どうやら部活動の最中らしい。
自分が帰宅部であるからか、部活動は夏休みでもあるのだということをすっかり忘れていた。
そんな自分に苦笑し、どうせならどこの部が練習をしているのか覗いていこうと敷居を跨いだ。
開けた視界に飛び込んできたのは、黄色いボールが飛び交うコートだった。
どうやら声の主はテニス部だったようだ。
テニス部は今年の夏も、全国大会出場という一大イベントを抱えているのだと、終業式間際の友人の言葉を思い出す。
夏の太陽が燦々と照りつける中、一心不乱にボールを追う彼らの姿は、夏によく似合っていた。
「あれ、やん。」
後ろからした声に振り返ると、クラスメイトでありテニス部の部長である白石が全身に汗を滴らせ息を切らして立っていた。
「白石?何してんの?」
「それはこっちの台詞やで。俺は走ってきたんや。コートが空くん待ってんねん。」
「部員、多いもんね。」
「で、は?夏休みやのに、どないして学校来とるん?」
腕で汗を拭いながら、首を傾げる。拭いきれなかった汗が太陽に照らされてきらきらと光っていた。
「うーん、なんとなく?」
「はは、なんやそれ。おもろい奴やな。」
「夏休み中の学校ってどんなかなって。でも部活やってると夏休み前と変わらない感じがするね。」
「せやなぁ、そこら中で声しとるからな。」
幾つもの声が響く晴天の空気の中で、白石の声だけは鮮明に聴覚に響いてきている。
さりげなく風のように紡がれていく言葉は、どれも心地良い響きを帯びているような気さえする。
「まぁ暇なんやったら、少し練習見ていくか?」
「邪魔じゃない?」
「観客が居った方があいつらもやる気が出るっちゅーもんや。」
男は単純なんやで。そう言って、白い歯を見せて笑ってみせる彼は、まるで太陽のように眩しかった。
彼に連れられてコートにほど近いグラウンドに立った。
暑いから、とスポーツドリンクと冷たいタオルを近くのベンチに置いて、彼は練習へと戻っていった。
その背中は、いつも教室で見ている背中より幾らか逞しいように見えて、気恥ずかしいような不思議な感覚を私の中に織り交ぜた。
部員に迎えられて、笑いながら何かを話す。
ラケットを手にしてコートに入っていくと、笑顔はもう姿を隠し、真っ直ぐで迷いのない瞳をその清廉な顔に浮かべた。
その表情に自身の胸がいつもと違う音を鳴らすのを、しっかりと感じた。
何かに夢中になっている姿は、誰だって美しいのだ。
強くなろうとボールを一心不乱に追いかけ、汗を散らしていく姿に、胸が早鐘を鳴らしていく。
何かを知らせるように、焦らせるように。
気が付くと陽はもう傾き始めていた。
顧問の声に集合する部員と、次いで響いた終了の合図は、真夏の空間に木霊しながら消えていった。
「お疲れさん。ずっと見とってくれたんやな。」
タオルで顔を拭きながら、白石が現れる。昼よりもずっと沢山の汗をその身体に流しながら。
「お疲れ様。うん、なんか面白くて。すごいね、テニス部って。」
「ははっ、まぁ大会も近いしな。頑張らんと。」
少し笑みを浮かべ、遠くを見つめるその瞳は、きっと遥か彼方にある勝利へと向いているのだろう。
ただひたすらに真っ直ぐに。
「頑張ってね、応援してる。」
「ありがとうさん。の応援があれば百人力や。」
屈託のない笑顔は、きっと彼の人柄を最大限に表している。
風のように爽やかで、陽のようにあたたかく、地のように逞しい彼は、私には眩しすぎた。
「…私も、頑張ろうかな。」
「なんや部活かなんか始めるんか?」
汗を拭い、首を傾げる。昼間と同じように、流れる汗は夕陽の色を帯びて少しだけ茜色に染まっている。
「ううん、そういうんじゃないけど。色々。」
「頑張るんはええことや。せやけど無理はせんようにな。」
その逞しい手が私の頭を二度三度撫でていく。
さらりと髪を梳かれる感触は、変に私を昂ぶらせ、体内で熱を燻らせる。
「なんか白石見てたら、そんな気持ちになって。」
「ははっ、それは光栄やな。」
もう一度、深く笑う彼に近づきたいと心から願う。
諦めることと大人になることはイコールでは結べない。大人になるとは逃げることが上手になるのではない。
必死に生きることは、格好悪いことではないのだと、彼の姿を見ていて気付いたのだ。
諦めることが格好悪いわけではない、けれど諦めることはつまらないような気がして。
眩しい光を浴びて笑う彼のように、走ってみたいと願った。
ある夏の日のこと
(背中を押されているような気がした。それだけの力を彼は持っていた。)