「さん。」
「あ、白石くん。今から帰るの?」
ほのかに暖かい風が髪を柔らかく揺らしていく。澄んだ空が、徐々に赤みを消して濃い群青色へと変わっていこうとしていく時間帯だ。
後ろから聞こえた声に振り返った。振り返る視線の先に景色の中に溶け込んでしまいそうな程の色合いを帯びた白石が立っている。
「せやで。今日も疲れたなぁ。」
「白石くん、部活忙しいもんね。」
「忙しいっちゅー程でもないねんけどな?テニス好きやし。」
「でも私だったら、たぶんバテちゃうよ。」
「はは、そりゃ男子と女子の差とちゃうか?」
カラリとした彼の笑みは、私の心にまで風を吹かせるように爽やかで、それなのにどこか甘美にさえ感じる。
彼は、ひどく柔らかくて優しい人だった。
会話を重ねるたびに、そう思う。
「俺は部活やったけど、さんはこんな時間まで何しとったん?」
帰宅部やろ?そう続けて、彼は首を傾げた。
さらりと流れる細い髪が、夕焼け色に染まっている。きらりと髪の一本一本が光って、それは私の目にやけに眩しく映った。
「宿題出たじゃない?」
「ああ、数学の。」
「そうそう、だから学校でやっちゃおうと思って。家に帰ると、他のことばっかしちゃうから。」
言いながら情けなくへらりと笑う。ずり落ちてきた鞄を肩にかけ直し、視線を彼に戻すと彼はゆっくりと目を細めた。
「さんは、真面目やね。」
「へ?真面目じゃないよ、真面目なのは白石くんでしょ。」
「はは、そんなムキにならんでも。」
くすりと笑いを零す彼がひどく大人に見えて、どうしてか悔しく思った。
彼は全てのパーツが、彼を成すひとつひとつの部分が、まるで作り物のように整えられている。
容姿も、性格も、嘘だと思いたくなるほどに、綺麗すぎる。
「まぁ、真面目かどうかは置いといて、俺はそういう子が好きやから。」
「へぇ、白石くんって真面目な子が好きなんだ。」
「あ、好き言うても、恋愛とかの好きとちゃうで?」
ふわりと笑みを濃くした彼は、そのまま歌うようなトーンで言葉を続けていった。
「宿題を学校でやろう思たんも、さっき言うとったけど家やと他のことしてまうからやろ?
そう思えるっちゅーことは、自分のこと理解してる証拠や。」
つらつらと淀みなく紡がれていく言葉の合間に、相槌を入れる。
すると、彼はにこりと笑い、また次の言葉を続けていった。
「自分のことを理解してるいうんは、一個一個をちゃんと考えて行動出来るってことになるやろ。
俺はそういう子、…っちゅーか人間が好きなんや。」
言い終わると、彼は浮かべた笑みをより一層深くした。
「さんは、そういう子なんやなぁと思うたら、なんや嬉しかったんや。」
ふんわりと、甘い香りさえ纏った笑みが、私の奥深くへと染み込んでいく。
その感覚は何故だかもどかしいと感じられる程に私を昂ぶらせた。
いつの間にか揃う足並み。知らぬ間に、帰路を同じくする私たちは、似たもの同士なのかもしれない。
そんな思考が脳の片隅に浮かんで消えた。
他愛もない話を、その透き通った声で紡いでいく彼は楽しそうだったし、そんな彼の話に笑い声をあげる私も楽しそうに彼の目に映っていただろう。
いつしか見えてくる見慣れた家。
「さん家、この辺やったっけ?」
さらりとさりげなく彼が尋ねてくる。それはまるで風のような滑らかさだった。
「うん、もうすぐそこだよ。」
「ほな、良かった。」
「え、白石くん家もこの辺なんでしょ?」
「いや、俺ん家、あっちやねん。」
そう言って、彼の細くて骨ばった指がすいと今来た道へと向けられる。
「え、じゃあなんでこっちに…」
戸惑い声をあげる私に、彼はくすりと微笑みを返した。
空はもう藍色に変わっていた。暗い空気の中で、彼の浮かべた笑みはひどく煌びやかに見えたのは、きっと目の錯覚ではない。
「もう遅いやろ、女の子の一人歩きは危ないで。」
吹く風は、優しさを帯びて肌を滑るように流れていく。姿を現し始めた星が、きらきらと頭上で輝いている。
「あの、ごめんね。話に夢中で…。」
「ええよ、俺が勝手にしたことやん。さんが謝ることなんてあらへん。」
「でも…悪いし…、」
言葉に詰まる私に、彼は気にするなと笑った。
「あ、じゃあ何か私に出来ることがあれば…、何か奢ろうか?」
「はは、気にせんでええのに。さんはほんまに真面目やなぁ。」
声をあげて笑う彼に、思わず私の頬も弛む。こんなにまで心地良い時間を過ごしたのは久方ぶりな気さえしてくる。
それ程に、彼と時間を共有することは私に形容しがたい幸福を与えてくれたのだ。
なんとなく別れが惜しく、最後の一言が言い出せずにいると、彼は何か思いついたような仕草を見せると、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「ほな、そしたらさんが良かったらでええんやけど、」
「うん、何?何でもするよ。」
「これからも、たまにでええから、一緒に帰ってもらえると嬉しいっちゅーか、まぁお願いやな。」
にこりと白い歯を見せて笑う彼が、体中に浸透していく。
じんわりと、内から温めるように、ゆっくりと確かに。
「そ、そんなことでいいなら…」
「ほんまに?おおきに。」
くしゃりと更に表情を崩す彼に、ひどく胸が締め付けられる。
徐々に早くなる鼓動は、きっと嘘じゃない。
「ほな、また明日な。」
「うん、今日はありがとう。」
「こちらこそ。」
ひらひらと二、三度振られた手さえも、眩しくて。
淡夢