ひどく日差しの強い日だった。
部活を引退し、迫り来る受験の為に日夜勉学に励む自分を、どこか可笑しく感じるのは自分にとってそれだけ『部活』の存在は大きかったということなのだろうか。
ぽっかりと空いてしまった時間を埋めてくれるのは勉学だと思ったが、どうやらそれは間違っていたらしい。
何をしていても、どこか物足りなさを感じてしまうのだ。
自分にとって部活というもの、『テニス』というスポーツが、どれだけ生活の割合の大部分を占めていたのか、今になって気付いた。
あかいあかい夕日が、電気の消えた教室内までもを紅く染め上げる頃。
誰もいない教室に残り、教科書とノートとにらめっこを続ける。
さほど勉強に手こずっていたわけではなかったけれど、そうでもしないと、間が過ぎないのだ。
テニスから離れている時間は、ひどく長かった。
ガラリと教室のドアが開かれる音がして振り向くと、クラスメイトのが教室内へと足を踏み入れようとしたところだった。
目が合うと彼女はにこりと微笑み、俺の席の近くまで歩み寄りながら、その小さな頭を傾げて高くも低くもない程よいトーンの声で言葉を発した。
「白石、どうしたの?勉強?」
首を傾げるのと同時に揺れた色素の薄い茶色がかった髪が、夕日に照らされて赤みを帯びて、きらきらと光っている。
「まぁなぁ。受験もあるしな。」
「白石、頭良いじゃない。そんなに勉強しなくても大丈夫でしょ?」
厭味のない笑顔を向けてそう言われ、胸の中に分厚くかかったフィルターが揺れる。
自分でも抑え切れない程の胸の燻りの理由は、きっと『テニス』にあるのだと、わかっていた。
行き場のない葛藤、誰にも言えなかった願い、それらは一体いつから俺に付いて回るようになったのだろう。
『完璧』だと『聖書』だと言われ続けてきた。
教科書通りのプレイスタイル、勝ちに拘るが故のプレイスタイル。
それを否定する者など、いなかった。むしろ、逆に周りは俺を褒めそやした。
勝つために、周りの言う『完璧』や『聖書』を貫いてきた。
それは俺にとって絶対であり、もちろん誇りも持っていた。
けれど、時折脳裏のかすめる願いは、俺の中で絶対の位置にあった全てのものを奪い去るような、『自由』への羨望だった。
『完璧』や『聖書』に嫌気がさしたわけでもなく、むしろそれは俺にとっての誇りであり、俺の全てであったはずなのに、だ。
「…白石さ、最近すごく辛そうな顔してるよ。」
「…え?」
「前もたまに、そういう顔してる時あったけど、最近は特に。」
「…そうか?」
「うん。新学期始まってから、増えたなって思ったから。」
彼女は真っ直ぐな瞳で、俺を見据えている。何もかもを見透かされているようで、けれど不快感を与えない不思議な鋭さを持った瞳だと思った。
小さくて形の良い唇から発せられる言葉は、どれも俺の核を鋭く突いた。
「……白石、テニスやりたいんでしょう?」
「……。」
「よくテニスコート見てるし、そういう時が一番辛そうな顔してるもん。」
胸の奥で燻っていた想いに火が付いたような気がした。
心臓が脈打つリズムに合わせて、体中が疼く。
目頭があつく湿ってくるのを誤魔化すために、握った拳に力を入れると長くはない爪が、手のひらに食い込むのを感じた。
「…あんな、ウチのテニス部のモットー、知っとるか?」
「…勝ったモン勝ち、だっけ?」
「そや、…それの意味がな、…全部終わった後に気付いてん。」
勝ったモン勝ち。
その言葉の意味をどうやら自分ははき違えていたらしい。
たとえ勝ったとしても、本当の意味での勝ちを掴めるのはきっと『楽しんだ』者なのだ。
『勝つ』とは、自分が思うようにやって『自由』を掴みとった上での勝利なのだ、と。
自分でも驚く程の掠れた声で、そんなことを告げると、彼女はひどく哀しい笑顔を見せた。
「…白石は努力家だから、きっとそうなっちゃったんだね。」
「…俺がやりたかったから、やってきたことや。それに、もっと色々出来たかもしれん、って今更…思ってまうねん。
完璧とか聖書って言われるんが、嫌やったわけやない。むしろ誇りに思ってたんや。
それやのに、なんでやろうな。どっから俺は間違うてしもうたんやろ。」
いつも通りの笑顔を作ったはずが、引きつった格好悪い笑顔になってしまった。
片眉だけ下げて笑う俺は、ひどく情けない。
握りしめた拳に食い込んでいく爪は、ぎりぎりと手のひらに爪痕を残していくだけだ。
「白石は間違ってなんかなかったよ。」
「せやけど、俺は最後まで気付けんかった、…勝ったモン勝ちってことに。」
「今、気付けたじゃない。」
「今更気付いたって、もう遅いわ。四天宝寺でやるテニスはもう終わってしまったんやで?」
「じゃあ、後輩に教えてあげなきゃ。…部長だったんでしょ?」
俺よりもずっと哀しそうな瞳をしたが、震える声でそう紡いでいく。
彼女の切羽詰まった声音は、俺の琴線をゆるゆると刺激して、何かを知らせるように早鐘を鳴らした。
「…ここでやるテニスは、終わっちゃったけど、でもまだ次があるじゃない。
白石自身のテニスは、まだ続けられるじゃない。もう全部終わった、みたいに言うのは寂しいよ。
それに、部員の人たちは白石が部長だったからこそ、付いてきてくれたんだよ。自分のためだけじゃなく、人のためにも頑張れる白石だったからこそ、だよ。」
彼女の双眸に、透き通った涙が溜まっていく。
ぽつりと音さえ立てそうな程に流れていく涙は、俺の心を浄化していくような気がした。
「…すまんな、こんなことに言うても、しゃーないのに。」
「…ううん。」
瞳から溢れ出る涙を拭う彼女は、また哀しそうに微笑んだ。
彼女の小さな手のひらを握りしめると、彼女は驚いたように目を見開いて、声にならない声を発したけれど、それも気にせず言葉を探して紡ぐ。
「……スッキリしたわ、おおきにな。」
「…う、ううん。」
「…高校でも、テニス続けるわ。そんで、次は本当に勝ったモン勝ちやって笑って言えるようなテニスしたる。」
「…うん。」
「のおかげやで、こんなん言えるんは。」
「…話してくれて、ありがとう。嬉しかった。」
「それはこっちの台詞や。」
彼女の白く滑らかな肌を滑る涙を、己の指先で拭うと、彼女は今度はひどく優しい顔をして、吐息を漏らして微笑った。
じんわりと、胸があつくなっていく。
ぼんやりと明確にならなかった理想が、色味を濃くして脳裏にはっきりと浮かんでいくような。胸のフィルターが外れて、全てがクリアになっていくような。
そんな感覚で満たされていく。
描いても手の届かない位置にあった未来が、手を伸ばせば届く距離にあるのだと、気付けたのだ。
夕日に照らされた彼女が浮かべた優しい笑みは、俺の脳裏に焼き付いて、色褪せない。
彼女の柔らかな髪にゆっくりと口付けると、彼女の頬は夕日に劣らない程、あかくあかく染まっていく。誰もいない教室に俺の笑い声だけが響いた。
きっと俺はまだ歩いていける。
今までの道のりを悔やむことなく、そこから続いていく新しい道を、進んでいける。
(脆くて儚い人だからこその強さが在るから。)