雨は苦手だった。雨の匂いは好きだったけれど、じっとりとした空気が肌にまとわりついて気持ちが悪いし、
湿気にまみれた髪の毛は上手く纏まらないし、制服は濡れてあまり心地良いものではなかったから。
数日間続いた雨がやんだある日。
朝を知らせる時計のアラームが鳴り、カーテンを開けると、外は分厚い雲を浮かべているものの雨粒は落ちてきていなかった。
幾分か気分が良くなり、軽い足取りで家を出た。
「おはよーさん、さん。」
「あ、白石くん。おはよう。」
振り返ると、今日のような曇り空には似合わない笑顔を浮かべた白石くんが目に飛び込んでくる。
同じように笑顔を返すと、彼は上げた右手をひらりと一度振って、笑みを深くした。
「なんや、じめじめしとって嫌な天気やなぁ。」
「そうだね。雨続きだったから仕方ないけど…やっぱり晴れて欲しいよね。」
「せやなぁ、雨やと練習もろくに出来んし。」
「今日は降らないといいね。」
「せやな。」
朗らかな声音は、心地良い響きを帯びて私の聴覚を刺激していく。
肩を並べたまま、教室へと足を踏み入れて、それぞれの友人と忙しなく挨拶を交わしていく。
ふ、と横にいる彼を見上げると、偶然にも彼も同じタイミングでこちらを見たようで、私の視線と彼のそれが交差した。
「…え、と。」
「ほな、さん。今日も一日頑張ろうな?」
「う、うん。白石くんもね。」
片手を上げて、自席へと戻る彼の背中に少しだけ物足りなさを感じてしまうのは我が儘なのだろう。
それでも、もう少しだけ話していたかったと一人ごちて、自身の席へと着いた。
堅苦しくて、メトロノームのように一定の音程を保ちながら話す先生の声。
ミミズがのたくったような形の悪い字が黒板へと並べられていく。
いつも通りの授業ですら、少しだけ輝いているように思えるのは、やはり雨が降っていないからか。
それとも、朝一番に彼と話せたからだろうか。
この想いは確実に『恋』であるのだと気付いたのは、一体いつだったか。
気が付いた時から、私の生活は色味を増した気がする。
彼のたった一言だけで、舞い上がるような気持ちになったり、逆に小さなことを気にして悩んだり。
その優しい笑顔が向けられただけで、心臓が早鐘を鳴らし始めたり、自分ではない女の子と話す姿に少しだけ哀しくなったり。
煩わしいような感覚が、それ故にひどく大切だと思うようになったのは、きっと彼のせいだと言っても嘘ではないだろう。
午後一番の授業中、ふと窓の外を見ると、しんしんと音を立てて雨粒が落ちてきていた。
(あ、雨…降っちゃったな…。)
ちらりと、窓際の席の彼を見てみると、頬杖をついて物憂げな表情を浮かべながら窓の外を眺めていた。
ちくりと胸が痛む。
今朝、雨が降らないと良いと話したばかりだと言うのに、神様は意地が悪い。
彼の哀しそうな表情など見たくなかったのだ。真っ直ぐな瞳でコートを駆け回る時の、凛々しい顔が好きなのだ。
(今日も、練習出来ないって思ってるのかな…?)
そう思うと、私の胸まで少し痛んだ。
午後最後の授業が終わりを告げると、私は机の横の鞄を掴んで、教室を出た。
下駄箱から靴を取り出して、床へ放り投げる。昇降口の大きなドアの下まで来ると、外の雨は先ほどより強さを増しているようだった。
(えぇと、確か折りたたみ持ってたはず…。)
鞄の中に手を入れて、目当てのものを探してみるのだが、どうやら忘れてきたらしい。
数日間、続いた雨が朝の内だけとは言え、やんでいたことが相当嬉しかったのだろうか。まさか折りたたみ傘を忘れるだなんて思ってもいなかった。
(あーあ……濡れて帰るしかないか…。)
覚悟を決めて足を一歩踏み出した時、声をかけられたと同時に肩を掴まれて立ち止まった。
「ちょい待ち!」
「え、あ、白石くん?」
「自分、この雨ん中傘も差さんと帰るつもりやったん?」
「う、うん…折りたたみ忘れちゃって…。」
へらりと情けない笑みを零すと、彼は小さく息を吐き「風邪引くで?」と困ったような笑みを返した。
「でも、やみそうにないし。」
視線を外に移すと、ざあざあと音を立てて、大粒の雨を落としている。
もう一度、先ほどと同じようにへらりと笑ってから「だから走って帰るよ。」と告げると、彼は耳を疑うような提案をした。
「ほな、俺の傘入ってくか?」
少し遠慮したような、はにかんだような笑みを浮かべ、首を傾げる彼の言葉が脳に正常に届くまでに数秒を要してしまう。
「あ、えっとでも、白石くん…部活は?」
やっとのことで事を理解した上で、なんとか言葉を探し出し紡いだが、自分でもわかる程に馬鹿げた返しだと思う。
この雨だ。部活は出来なかったのだろう。今朝、そんな話をして、雨が降り出したことに気付いた時は彼の部活の有無を案じたばかりだというのに、
私の脳はどうかしている。
「雨、降ってしもうたからな、今日は部活はナシや。」
「…だよ、ね。」
彼と一緒に下校出来る。それだけで、心臓が爆発しそうな程の衝撃を私に与えているというのに、彼は自分の傘に入れてくれると言う。
つまり所謂相合い傘をしようと言うのだ。嬉しいという以前に、緊張の方が勝っていて、吐き気すら覚えそうだ。
「迷惑やなかったら、家まで送らせてや。濡れて帰ったら風邪ひいてまうやろし。」
私の複雑な気持ちを知ってか知らずか、彼はもう一度首を傾げてから傘を開いた。
迷惑をかけるのは私の方だというのに、彼はあくまで自分が下手に出る。
そういうところも好きなのだ、と思考の片隅で思う。
その優しさに惹かれたのは紛れもない事実で、この偶然なハプニングは私にとって願ってもない出来事で、それだけに緊張してしまうのだけど。
せっかく気を遣ってくれたというのに、断るのも悪いなんて理由を付けようとする自分はもしかしたら狡いのかもしれない。
「…じゃあ、お言葉に甘えて…。」
「ん、ほな、帰ろうか。」
藍色の傘の下に、ゆっくりと入る。歩きながら肩が触れる度に、心臓が破裂すると錯覚する程に脈を速め身を硬くした。
彼はそんな私の動作を見ると、くすりと微笑うと「少し恥ずかしいな?」なんて少しもそうは思わせない笑顔を浮かべて言った。
Rainy Day
家に着くまで、何を話したかなんてほとんど覚えていなかった。