夏が終わりを告げた。
長いようで短かい、永遠のようでほんの一瞬だけの、最後の夏が、終わった。
その事実は、すぐには現実となって俺の眼前に現れては来ず、時期部長へと引き継ぎを行った時にやっと現実となり俺を襲った。
不意に襲いかかってきた実感は、俺に喪失感だけを与えて去っていく。
部活のない日常。ぽっかりと空いた時間へ、するりと入ってきた人影。
「白石。」
「…。すまんな、呼び出してもうて。」
人気のない公園へ彼女を呼び出した理由は、自分でもよくわからなかった。
ただ、彼女の雰囲気は同年代の女子と違い、なんとなく落ち着く居心地の良い空間を創り上げてくれるのだ。
なんとなく、彼女に会えば少しは落ち着くだろうか、と思った。
大会が終わり数日が過ぎて、やっと整理がついてきたのだ。
これから自分がどうするのか、何をしていくのか、考えてもそれは理想でしかないが、それでいいのだ。
そうやっていくしか、ないのだ。
「…今日も暑いね。」
「せやなー、汗だくになってしまいそうや。」
ちゃんと日焼け止め塗ってきたか?そう問うと、彼女はひとつ微笑んで頷いた。
その笑みは、俺の中に燻っていた行き場のない悔しさを、ほんの少しだけ和らげてくれたような気がする。
やはり彼女を呼んで間違いなかったと、自身の一種の勘とも云える感情に安堵した。
木々がさらさらと音を立てて揺れる。ゆるやかな時間は、今までと何ら変わりはなく、夏が終わったことなど嘘であったのだと思いたくなる。
けれど、それは確かな現実、過ぎてしまった現実。
もっとやれるのだと、まだ出来るのだと、もっと強くなれるのだと、そう思ってここまでやってきた。
試合前に、出来るすべてを尽くしたと云える自信も、勝てるという自信も確かにあった。
精一杯やって、闘い尽くし、敗けたのだから悔いなどない。そう言えたらどれ程良かっただろう。
いくら力を尽くしたとしても、いくら最善を尽くしたのだとしても、きっとこの悔しさとは直面するのだ。
そう気付いたが
頭では理解出来ても、心がそれを受け入れるまで少し時間がかかるようだ。
「…白石、テニス辞めるの?」
そう静かに彼女の声が紡いだ。小さくてか細くて木々のざわめきに消え入りそうな程、さりげなく。
聞いて欲しかったのかもしれない、未だに浄化されない雪辱で塗り尽くされた未練を。きっと一生忘れることの出来ない、ほんの数日前のことを。
「…正直な、敗けた時、辞めようかと思ったんや。」
口から零れた声は掠れていた。自分でも聞き取りづらい程の声を彼女は正確に捉えたようで、俺の言葉に眉根を寄せ、少し苦しそうな顔をした。
そんな彼女の表情に胸の燻りが少しだけ浄化されていく。
「せやけど、やっぱり諦められへん。俺が目指すんは、ここまでやないねん。もっと…先、やねん。」
口にしたことで、決意は膨張していく。視界の端に映る彼女が眉根に寄せていた皺を和らげ、柔らかく微笑んだ。
いくつもの不安があった。今の自分への不満も、『完璧』ということへの不信感すら己の中に在ったのだ。
勝利に拘るが故の『完璧』。それは決して間違っていないのだと思っていたし、今だってそれは変わらない。
けれど、自分で決めたその道筋に転がっている不安や戸惑いを見付ける度、同じようにそこら中に転がっていた希望や成果を見逃していった気がするのだ。
それでも挑み続けたいと願ったのだ。果てしないと、終わりが視えないと、わかっていても。
不安があろうが、迷いがあろうがなんだろうが、今の自分が進む道は間違っていないのだと。そこには、沢山の希望と成果と幸福が在るのだと、
頭と心のどこかで、信じていられたからこそ、わかっていたからこそ、
ここまで歩けたのだ。走れたのだ。
「ここで辞めたら、きっと一生後悔するんや。」
彼女は、何も言わず、ただじっと真っ直ぐな瞳で俺を見つめていた。
澄んだ瞳に、ひどく安心する。色素の薄い茶色の瞳に映る自分は、同じように真っ直ぐな瞳をしている、それはきっと俺の本当の姿で在るはずだ。
嘘など微塵もない、確かな自分を彼女の瞳の奥に見たような気がした。
「…なら、良かった。」
「負けて終わるんも、癪やしな。」
「負けず嫌いだね、白石。」
ふふ、と吐息を漏らして笑う。彼女の笑顔と言葉が、俺のまだ生傷の状態の雪辱を、ゆっくりと瘡蓋にしていく。少しずつでも癒えていく気さえする。
「ありがとうな。」
「何が?」
「いや、話聞いてもろて。なんや、すっとしたわ。」
「ううん、いいよ。私、白石がテニス続けてくれるんなら嬉しい。」
ゆるく首を振った彼女は、次いでふんわりとした柔らかい笑顔を浮かべた。
雲ひとつない空に浮かぶ太陽が鋭い光を放ち、俺たちを真上から照らしていく。じりじりと肌の焼ける感覚ですら、今の俺には糧になるのだ。
「…俺な、強くなりたいねん。」
「うん。」
「…もっとな、楽しくやりたいんや。」
「…うん、そうだね。」
呟くような音程で、言葉が交わされていく。彼女が俺のテンポに合わせてくれているのか、はたまた俺たちは同じ波長なのか、それはわからなかったけれど
ひどく心地良くて、少しの不安ですら受け止めてくれるような時間が、愛おしい。
「私ね、白石が楽しくテニス出来たら、それが一番良いんだと思うよ。」
「…せやな。」
「それで勝てたら、もっと良いよね。」
「…どっちもやってみせるで?」
「楽しみにしてる。」
目を細めて笑う彼女の動きに合わせて、髪がさらりと流れた。陽の光で透けて見える髪の一本一本でさえ、きっと夏の思い出になっていく。
一生忘れられない夏だって、雪辱まみれの現実だって、時間と共に徐々に思い出になっていくのだ。
それでも、きっと俺はほんの数日前を、そして今を糧にしていけるのだと、今だから信じられる。
思い出になったって、それは現実であったのだから。傷ついたことも、泣いたことも、これからの糧に出来るのだ。
「なぁ?」
「なに?」
風になびく前髪を、耳にかけながら、彼女が視線を向ける。真っ直ぐで濁りのない茶色の瞳は、俺を安心させる。
「高校、どこ行くん?」
「…まだわかんないけど、また白石と一緒だったらいいね。」
「そうやな。けどもし違うとこになっても、試合は見に来てな?」
「うん、そうする。」
にっこりと笑う彼女の瞳に映る自分も、同じように微笑っている。それはきっとこれからの俺を暗示している。
一羽の鳥が飛び立っていく。木々を揺らし、風に乗って夏の青く澄んだ空へと羽を広げる姿はひどく眩しく、俺の視界に幾つもの虹彩を散らしていった。
プロローグ.
ここからまた始める 僕の未来を