微かに残る夕焼けが、空に鈍いグラデーションを浮かべている。
少しずつゆるやかに吹く風は、なめらかに肌を滑り肩まで伸びた髪を揺らした。
淡いグレーのスカートが小さく揺れる。足下に伸びる自分自身の影は、夜が近づくと共に色を薄くしていった。
この時間帯が好きだった。夕方と夜の境目の曖昧な空間が、ひどく心地良いのだ。
小さく音を鳴らしながら、アスファルトの地面を歩く。
パックの紅茶と、ペットボトルが二本、お菓子の入ったビニール袋はその度にカサカサと乾いた音を響かせた。
ふ、と視界に入る段々と近づいてくる人影は、夕闇にぼやけて揺れていた。
揺れる髪の動き、手足の動きで、ジョギングをしているのだと気付いた。
ご苦労様、と頭の隅で思うと、邪魔にならないように道の端へと寄り、目前に迫った人影を見て小さく声をあげる。
「…あ、やん。」
徐々にペースを落とし、私の目の前で立ち止まった彼は、額を伝う汗を腕でぐいと拭った。
そして、にこりと白い歯を見せて笑う。
「なんや、暗くてよう見えんかった。気付かんで通り過ぎるところやったで。」
止まらない汗を幾度も拭いながら、彼は耳に付けていたイヤホンを片方ずつ取ると丁寧にポケットにしまい込んだ。
どれほど走ったのだろう、息があがっている。短く呼吸を繰り返す姿は、彼がスポーツをしていることを改めて感じさせた。
「私も近くに来るまで白石ってわかんなかった。」
へらりとゆるく笑うと、彼は声をあげて笑った。
「同じやな。で、どないしたん?どっか行っとったん?」
腕をぐいと伸ばし、膝を何度か曲げて、彼は首を傾げた。いつも綺麗に整えられた明るい茶色の髪が汗で乱れている。
その姿がいやに眩しくて、少し気恥ずかしい気持ちになる。
「あ、うん。コンビニまで。あ、スポーツドリンクあるよ。飲む?」
「ホンマか?もらってええのか?」
「うん、喉乾いたでしょ。」
言いながらビニール袋からペットボトルを取り出し差し出すと、彼は「俺、金持ってないで」と冗談めかして笑った。
「いらないよ、これくらい平気。」
同じようにケタケタと笑い、もう一度ペットボトルを差し出すと彼はお礼の言葉を口にしながら私の手からそれを受け取った。
どれくらい走ったの?そう尋ねると、彼は10kmくらいだと顔色も変えずに答えた。
とても自分では想像出来ない距離に、呆然とする。
何が彼をそこまで歩かせるのか、どうしたらそんなに頑張れるのか、不思議に思った。
まだ走るの?今度はそう尋ねた。すると彼は、少し笑ったあとひとつ頷いた。
「せやなー、もうあと10km走ったら帰るわ。」
「…すごいね。」
「すごないで、これくらい普通や。」
片眉を下げて苦笑してみせる彼は、揺るぎない何かを持っているのだと、感じる。
だから眩しいのだと、気付く。
「…なぁ、ちょっと話聞いてくれるか?」
「ん、うん。いいよ。どうしたの?」
彼は頬をひとつ掻いて、ぽつりと言葉を紡ぎ始めた。
「ホンマはな、不安やねん。」
「不安?」
「たまにな、俺のやってることとか、これだけの練習でええのか、とか。そういうの全部信じられんようになる。」
「…うん。」
初めて打ち明けられる彼の胸の内の言葉に、私は上手に言葉を返せなかった。
ただ小さく頷いて、真っ直ぐに前を向いて話す彼の横顔を見上げた。
「でもな、進むしかないねん。もっと出来る思うたら、もっとやるしかないねん。」
立ち止まらない、諦めない、まだ先がある。
最果てがあるのなら、そこまで行くのだと。最果てがないのなら、ずっと進むのだと。彼は真っ直ぐにそう言い切った。
ひどく眩しい人だと思った。そして脆いと思った。
彼はひとつ息を吐くと、先ほどと同じように片眉を下げて苦笑してみせた。
「すまんな、いきなりこんなん話して…。」
自分自身の脆さを知っているから、彼は進み続けるのだろうと、続けられるのだろうと、呆然と思う。
強くなるために、己を高めるために、進むのだと。
「…ううん、いいよ。」
「なんや、少しセンチメンタルやってん。」
「ふふ、白石が?」
「俺かて、切ない気持ちにもなんねんで。」
声をあげて笑う彼が、眩しくて。夕闇に浮かぶ一つの星のように輝いて。
「…白石。」
「んー、なんや?」
「頑張ってね。応援してる。」
「おお、ありがとな。」
白い歯を見せて、整った顔をくしゃりと崩して笑う彼が、愛おしいと。
芽生えた気持ちには当分、蓋をしておくのだと、心の奥底で感じる。
ほな、またな。
そう言って片手をあげた彼が、もう一度笑う。
頑張ってね、と私も笑った。
半分ほど残っている私があげたペットボトルを一度宙へ投げて、もう一度掴んだ彼は、「これも、ありがとうな。」と透き通った声で紡いだ。
走り去っていく背中を、私はいつまでも見ていた。
眩しい背中、彼がいつまでも彼らしく在るように、願いながら。その背中が見えなくなるまで、目に焼き付けるようにして真っ直ぐに。
走れ 走れ
(それがたとえ茨の道でも 彼は進むんだろう)