夏は好きだ。太陽の光がちりちりと肌を焦がしていくような感覚も、汗が肌を滑る感触も、もわりとした熱がアスファルトから反射して私を昂ぶらせていく煽情感も。
ゆるやかな風が真横を通り過ぎていく。騒がしい蝉の声も、賑やかさを増して聞こえる人々の声も、車のエンジン音も、すべてが愛おしく感じた。
校舎内は、生徒の声が木霊していた。昇降口で幾人かの友人と挨拶をしながら自分の靴を取り出すと、後ろから賑やかな笑い声が聞こえてきた。
振り返ると、そこにはテニス部の部員たちが朝練を終えて、丁度、昇降口のおおきなドアの下を通過したところだった。
「お、やん!おはよーさん!」
「おお、ホンマや。さん、おはようさん。」
同じクラスの謙也くんと、白石くんが、片手をあげて笑う。それに、同じように笑い返すと、一日が途端に華やかになったような感覚が私の中に充満する。
「なぁなぁ、このねーちゃん誰なん?白石の彼女?」
「アホ、ちゃうわ。クラスメイトのさんや。」
白石くんの背中に飛びついて、そう尋ねたのは、スーパールーキーという肩書きを背負った遠山くんだ。
彼とは一度も話したことがなかったが、その天真爛漫な性格と、テニスの腕前から、校内では有名人なので私は一方的に知っていたのだ。
「あはは、私なんかが白石くんの彼女じゃ、申し訳ないよ〜?」
「ははっ、そんなことないで?さん、可愛ええし、大歓迎や。」
「あー!白石がねーちゃん口説いとる!手が早いで、白石ぃ〜!」
ケタケタと鈴のような遠山くんの笑い声に、思わず頬が弛む。白石くんも、楽しそうに目を細めている。
良い朝だ、きっと今日は一日幸せでいられるだろう、そう思い肩にかけた鞄を背負い直すと、くい、と制服の裾を引かれて振り返った。
「え?あ、謙也くん。どうしたの?」
「…別に、なんもない。」
いつもなら合うはずの視線が、合わない。ふい、と視線を逸らされて、少し胸が痛む。
彼は、ひどく気の悪い顔をして、先行くで、と呟くように言い放つと、一人で教室へと向かってしまった。
「…何か悪いことしちゃったかな?」
去っていく彼の後ろ姿を目で追いながら、そう呟くと、白石くんが靴を履き替えながら、息を吐いた。
「あー、あれはなぁ…。」
苦笑いを浮かべた白石くんは、しゃーない奴や、と小さく呟くと、次に朗らかな笑みを浮かべて、私の頭をひとつ撫でた。
「ま、さんは、気にせんでええで。あいつのあれは病気やから。」
「えー、謙也病気なん!?初耳やで!?」
「あー、ちゃうから。金ちゃんは、とりあえず黙っとき。」
意味わからん、と騒ぎながら遠山くんと白石くんが、教室へ向かっていく。
その後ろをついていきながら、どうしても胸のつかえが気になって仕方がなかった。
一限目の終わりを告げる鐘が鳴る。ふ、と隣の席の謙也くんを盗み見ると、
つまらなそうに頬杖をつきながら、小さなあくびをひとつ漏らしていた。
彼の肩をとんとんと叩くと、彼はもう一度あくびをしながら、なに?と尋ねてきた。
「あの、…朝、ごめんね。」
「は?」
「謙也くん、なんか怒ってたから…、何か悪いことしたかな、って…。」
「あー、ええねん。あれは…なんちゅーか、…まぁうん、そういうことや。」
「…ごめん、意味わかんない。」
「あー、まぁ怒っとらんから、気にせんでええでってことや。」
そう言うと、彼はいつもの笑みを浮かべた。白い歯を見せて、その整った顔をくしゃりと歪ませる笑顔だ。
テニスをしている時とは、違う顔。テニスをしている時は、もっと大人びていて強気な彼が、普通の中学生の顔になる笑顔が好きだった。
正直、テニスをしている彼を見ると、私には手の届かないような遠い存在のように思えて、少しだけ寂しさを感じるのだ。
「…なぁ、?」
「なに?」
「…自分も、白石は格好ええって思うか?」
ふ、と彼が呟いた言葉は、いやに小さくて、思わず聞き返しそうになる。
「…どうしたの、いきなり。」
「何も聞かんと答えてや。格好ええか?」
「…そりゃ、顔も綺麗だし、背も高いし、テニスも上手だし、頭も良いし、格好いいとは思うよ。」
素直にそう答えると、彼は大きなため息を零し、ゴツンと音を立てて机に俯せてしまった。
彼の声とは思えない、か細い唸り声は彼の口と机の間でくぐもった音となり響いていた。
先ほどの笑顔が嘘と思える程、いきなり項垂れてしまった彼を見て、途端に不安が押し寄せる。
また何かしてしまったのだろうか、と。
人は気付かないところで、意外と人を傷つけてしまうものだ。私の感性とは別の感性を持っているであろう彼を、気が付かないところで傷付けたのだとしたら、
私は自身を恨んでも憎んでも気が済まないだろう。
「あの…謙也くん?」
おそるおそる声をかけると、彼は突っ伏していた顔を右に向け、ちらりと私を見やった。
上目遣いに見上げられて、異様に胸が高鳴る。
男の子にこう思うのは失礼なのかもしれないけれど、可愛いとすら思える程に頼りなさ気な表情は、私の胸の奥深くを突いた。
「…なぁ、…俺と白石どっちが格好ええ…?」
消え入りそうな程小さな声で、彼はそう尋ねた。あまりに唐突な質問の、その意味を理解するまでに数十秒を要してしまう。
「…え、と…?」
「どっちが格好ええと、思う?」
しどろもどろになっている私に、彼は追い打ちをかけるようにもう一度同じ質問を繰り返す。
どこから思考がそうなって、彼がそう聞いてきたのかは、わからないけれど、突拍子もない質問だと思う。
心臓が嫌な音を立てていく。徐々に速度をあげていく鼓動が、自身を変に焦らせて気持ちが悪い。
何故自分がこんなに焦るのか、わからない。ただただ嫌な音を響かせていく心臓だけが、私に何かを気付かせようとするのだ。
「…え、っと。どっちが格好いいかっていう、のは、好みの、問題じゃないかな?」
彼に負けない程の小さな声で、そう言い終えると、彼はひとつ息を吐いて、苦く笑った。
その笑みは、自嘲的で少しだけ哀しくて、それでもどこか甘いような、不思議な笑顔だった。
その表情に、先ほどとは違う音を奏でた自身の胸の奥。その音は、愛おしさを孕んだものだった。
「…我ながら情けないわ…。」
「え?」
「ああ、何でもないねん、ちょっと、な。」
そう言って、くしゃりと笑う。私の好きな笑顔だ。
「…ま、覚悟しときってことや。」
「何が?」
「白石には負けへんで、っちゅー話や!」
彼がに、と口角をあげて笑う。悪戯っこのような、それでいて確かな男性の香りを纏った顔で、私を真っ直ぐに見据えて。
ドキリと鳴る胸に、気付かされる。
私はずっと前から彼が好きだったんだ、なんて今更。
「謙也、俺はいつからお前のライバルになったん?」
「だってが、お前のこと格好ええって言ったんやで!」
「それは客観的に見たら、の話やろ。アホか。」
「アホ言うなや。」
「俺のこと気にする前に、お前はそのヘタレをなんとかせんとアカンやろ。」
「…うっさいわ、アホ!!」
「それから、俺に嫉妬して、どないすんねん。」
「…やって、自分がにやにやして"さんが彼女なら大歓迎や〜"とか言うからやろ。」
「顔と態度に出しすぎて、さんに心配かけとったら、男としてどうかと思うねんけど?」
「…う、うっさいわ、アホ!!!」
(さんは元々俺になんて眼中にないっちゅーのに…まぁ、言わんとこ…。)
(白石には絶っ対、負けへんで!!)