心が急速に音を失って、空白だけが残った時。
そんな日が来るとしたら、その時自分がどうなるのか。そう考えると、それだけで景色も感情も全てが虚になっていきそうで怖くなったりする。
秋めいた風が鎖骨まで伸びた髪をゆるく揺らしていくのを、肌で感じ取る。
ひどく物悲しいような、それでいて愛おしいような感覚は、私の琴線を刺激して去っていく。
可愛い服や、色とりどりの化粧品や、愛くるしいぬいぐるみ、そんなものをどれ程集めても、意味がないことくらいわかっていた。
時折、なんの前触れもなく襲い来る空虚感や虚脱感は、理由などないものだとわかっていた。
何をしても埋めることなど出来ないもので、私はそれらと上手く付き合っていかねばならないのだと、本当はわかっていた。
「…おい、」
けれど、私はそれに抗おうとするのだ。いつも、どんな時でも。
深い闇に呑み込まれていきそうで、ひどく恐ろしくて、受け入れることをしようとしない。
抗えば抗う程に闇は暗さを増し、より残酷で強大なものへと姿を変えていくだけなのに。
「…?」
脳に靄がかかるように、思考が濁っていく。
何も考えたくなどないのに、脳は回転を止めない。嫌なことばかり考える。
自分が自分でなくなるような、けれどそれすらも自分だと認めざるを得ないようで気持ちの悪い感覚が、私から常識だとか情緒を奪おうとしていく。
キリキリと音を立てて体中が痛むのを感じられるだけ、まだ良いのかもしれない。
「!!」
「えっ、あ、ごめん。何?」
叫ぶようにして呼ばれ、同時に肩を揺らされて急激に視界が晴れる。
五感が体内に戻ってきたような、現実が目の前にあるのだと実感するような、当たり前のようで当たり前じゃないような、不可思議な感覚。
視界に映る梶が、ひどく物悲しい瞳をしているのは、どうしてなのか考える。
鈍く痛み出す頭が煩わしくて、すぐに考えるのをやめた。
「…はぁ…、…次、移動教室だぞ。」
そう言って時間割を指さす。すい、と伸びた指がいやに白く映るのが、何故だか痛々しい光景に見えた。
「あ、そっか。わざわざ、ありがと。」
のそのそと引き出しの中から教科書を探し出す。未だにぼんやりとするのは、濁った泥のような思考が片隅にあるからだろう。
「…、ちょっと付き合え。」
ぐい、と腕を引かれ、半ば強引に椅子から立たされる。
もつれた足を必死に動かすのと同時に、抱えた教科書がばさばさと音を立てて床に広がった。
彼はそんなことに目もくれずに、痛い程に腕を引き教室を出て行く。
「梶、どこ行くの。授業、始まるよ。」
「うるせー、んなもんサボりだ、サボり。」
「は?ちょっと、私、単位…、」
「どうせ今の状態じゃ、頭ン中入っていかねぇから、大人しくサボれ。」
「そういう問題じゃ…っ」
そうこう言い合っている内に、彼は私の手を強く引いたまま階段を上っていき、屋上への重いドアを開けた。
吹き抜ける風が、扉を開け放した瞬間に鋭い音を立てて横隣を抜けていく。
「単位、落としたら梶のせいだからね。」
「おー、好きにしろよ。」
意地悪く笑うと、彼は錆びたフェンスに手をかけた。
すると、不気味に思える程に枯れた音が鼓膜を刺激していく。それは酷く気持ち悪い感覚だった。
何を話すわけでもなく、彼はただ外の景色を眺めていた。
風が揺らぐ音さえも聞こえてきそうな程、静まりかえった屋上は、何故だか居心地が悪い。
「…梶。」
「ん、なんだよ。」
無理矢理に此処へ連れてきた張本人は、我関せずという態度をちらつかせながら目だけをこちらへ向けた。
その態度に少し胸がつかえる。
「…何か話とかあったんじゃないの?」
「…特に、なにも。」
そう言い放つと、彼は視線をすい、と景色へと戻した。
胸のつかえが、呼吸さえも奪っていきそうな程に縛り付けていくような感覚が、酷く私を苛つかせる。
大きく酸素を吸い込んで、二酸化炭素と一緒に吐き出していく。呼吸と同じリズムで、何をもの不快感も吐き出せたらどれだけ楽になるのだろう。
その場に座り込むと、服がコンクリートの床と擦れて乾いた音を鳴らした。
その音に気が付いたのか、彼が首をぐるりと回転させて、私を見やる。
真っ直ぐで、どこか鋭い視線が痛い。
「…なんつーかさ、落ち着かない時とか、イライラする時とか、」
静かに掠れた声音が、鼓膜に飛び込んでくる。静かに、一滴ずつ雫が水面を揺らすようにさりげなく紡がれていく言葉を、最初は上手く理解出来なかった。
徐々に脳へと直接的に訴えかけてきているのだと気付いた時、不快感は薄れていたような気がした。
「そーいう時は、授業とかサボっちまって、ぼーっとすんのが一番良いんじゃね?」
「そんなことしたら、空っぽになっちゃうじゃん。」
「いーんだよ、空っぽにするために、ぼーっとすんだから。」
フェンスから体を離した彼が、一歩ずつゆっくりと、私へと近づいてくる。
「空っぽになっちまえば、あとは全部受け入れられるだろ。空っぽになってんだから。」
目の前まで来た彼が、私と視線を合わせるように膝を付いた。
ジーンズとコンクリートが擦れる音が、少しだけ哀しいのは、きっと私の心情を表している。
「…難しいこと言うね。」
「おー勤勉だからな、俺は。」
「梶がそれ言うの、おかしい。サボらせたくせに。」
「ははっ、でもタメになったろ?」
「…どうだろうね?」
自身の顔に浮かべた笑みの色は、まだ哀しいのかもしれない。
彼が浮かべた笑みの本当の色も、実は濁っているのかもしれない。
難しいことは、沢山溢れているのが現実だ。
空っぽになることだって、実際のところは困難だ。
けれど少しだけの空白を受け入れて、そこから少しずつ色を加えていけば、いつかは全てを上手く循環させられるようになるのかもしれない。
少なくとも、今よりは少し上手に生きていけるのかもしれない。
「梶って、意外と情緒があるんだね。」
「意外は余計だ。」
顔を見合わせて笑う。そんな日常でさえ、今までにはなかった色を示していた。
色を知る
(大切なことは、少しずつ知っていけばいい。)