上手に生きることは難しい。自分が在りたい姿を想像しても、その通りに生きることは、困難だった。
好きなものは好きと云えて、全てを受け入れ、ありのままの世界を愛すことなど、到底出来るわけがなかった。
頭がずくずくと痛む、体内を流れる血液が脈打つのと同じリズムで、ずくりと一回ずつ大きく痛むのだ。
何かの病気なのではないか、なんて自分の考えに嫌気がさす。
あとどれだけ私は自分を守れば気が済むのだろう。
嫌なことから目を背け、苦しい道から逃げ出す私の行動は、自己防衛なんて言葉じゃ済まされない程、醜い気がした。
布団を頭までかぶせ、携帯のアラームを止める。
母が自室のドア越しに「遅刻する」と言っているのに、くぐもった声で「熱があるから休む」と返した。
高校に入って初めての、『仮病』を使うと、少し胸が痛んだ。
また私は逃げるのだ。自分に勝てず、自分自身をひどく脆い硝子のように扱うのだ。
断続的に続く痛みに耐えかねて、目を閉じる。今日は一日寝て過ごすのだと、決めた。
何も考えたくなどない、寝て起きたらきっと、この何に対してなのかわからない嫌悪感も消えているはずだ。
目を閉じて数分後、ふと携帯に目を向けた。
(孝介、朝練終わってる、よね。)
変に鼓動を速めた胸が苦しくなる。眠る前に、彼の声が聞きたいなんて我が儘に勝てず、通話ボタンを震える手で押す。
5回目の呼び出し音が鳴る前に、電話越しに彼の声が耳をくすぐった。
「なんだよ、どうした?ってかお前休みか?」
孝介の声は、電話越しだと余計に無愛想に聞こえる。けれど、その声は確かに私を落ち着かせてくれるのだ、まるで鎮静剤のように。
「うん、休み。だから孝介に連絡しておこうと思って。」
小さな声でそう告げると、電話の向こうで彼は小さくため息をついた。
「…お前さ、……やっぱなんでもない。」
「…学校頑張ってね。あと部活も。」
「おう、しっかり休めよ。」
「…うん、ありがと。じゃあ、」
そう言って、電話を切ろうとした時、彼が待ったと声をあげ、再び通話ボタンを押そうとする私の動作を遮った。
「今日ミーティングだけだから、終わったらそっち行くから。」
待ってろ。それだけ言うと、こちらが言葉を発するより早く、彼は電話を切った。
彼が何を思って、家に来てくれるのか、理由はわからなかったけれど、寝て起きたら彼に会えるのだと思うと、
仮病を使って休んだことは決して無駄ではなかったのかもしれない、なんて不謹慎なことを考えた。
彼と話したことで、少しだけ心にかかった霧のようなフィルターは、クリアになった気がしたけれど、
それでも未だもやもやと私を鬱々とさせる何かは、残ったままだった。
先ほどまで受話器の奥から聞こえていた彼の声を思い出し、目を閉じる。
少しだけ寂しいような、甘いような、不思議な感覚のまま、眠りへついた。
目を開けた時、外は既に暗くなっていた。ぼんやりとした視界で、枕元の携帯へと手を伸ばし時間を確認しようとした時、
ベットサイドから聞こえた声に、私の脳は急激に目を覚ました。
「おす、起きたか?」
「…こう、すけ!?」
「んな驚くなよ、来るって言っただろ?」
彼は持ってきていた野球雑誌をぺらぺらとめくりながら、無愛想に声を紡ぐ。
そして、母に挨拶をすると部屋まであげてくれたのだ、と続けた。
「そうだけど、…もう学校は終わったの?」
「終わったから来てるんだっつーの、ばか。」
くしゃりと顔を歪ませて笑う、彼が稀に見せる私の好きな笑顔だ。
小柄な体格に似合わない男の人の指で、私の髪をおおきく撫でると、彼は唐突に私の額にキスをした。
「なっ、何…いきなり…。」
「お前こそ、何ヘコんでんだって話。」
「え?」
ぽかんという擬音が本当に聞こえてきそうな程、口を開けて呆けている私の鼻の頭を彼は小突いた。
そうして、心配そうな、それでいて意地の悪いような不思議な顔を見せた。
「朝さ、お前なんかおかしかっただろ?だから、何かあったのかと思った。」
ぶっきらぼうに、それでもひとつひとつの言葉を丁寧に選ぶ彼は、優しかった。
彼の言葉は、私の曇った心を抜けてじんわりと沁みていく。あつい何かがこみ上げて、視界が水滴で滲んでいく。
視界に映る孝介の顔がぼやけていく。
「何で泣くんだよ?」
「…っ、わかんない…っ。」
嗚咽で言葉が上手く紡げない。それでも私は必死に言葉を探して、発した。
何が悲しくて、それとも嬉しくて、どうして自分が泣いているのか理解が出来ない。
なんとなく寂しくて、それを上手く受け入れられない自分が情けなくて、何時でも孝介に甘えてしまう自分が悔しくて。
そんな私を、いつだって支えてくれる孝介が愛おしくて。
もっと上手に生きたい、もっと上手に愛したいのに、どうしても上手くいかなくて。けれど、どこかで現状に満足している自分がいる。
こんな私は理想の私ではないのに。それが苦しいんだ。
幾つもの感情が混ざって、とめどなく溢れていく。涙と一緒に口から言葉が零れ出す。
それに伴って少しずつ心に溜まった嫌な感情は、浄化されていく。
私が途切れ途切れに言葉を紡いでいる間、孝介は何も言わずに、ただ頭を撫でていてくれた。
時折、髪を梳いて、背中を撫でて、頬を伝う涙を、その逞しい指で掬い取った。
「…は、考えすぎ。そんで、無理しすぎ。」
「…みんな、それくらい頑張ってる…。私はまだ頑張れてない。」
いつだって私は未熟で、人が進むペースについていけていないような気がした。
追いつきたくて、背伸びをしてみたり、嘘をついてみたり。そうすることで自分を守っていたつもりだった。
けれど、その行為は私が在りたい姿から、より遠ざかっていくようで、苦しくなっていった。
「そのままのお前で良いんだよ。」
「ありがちな言葉だけど…、俺は、そのままで良い。無理したは嫌だ。」
彼が、真っ直ぐに私の目を見つめて、またひとつ額にキスを落とす。
「…このままじゃ、私はずっと弱いまま、で。」
「…弱くて良いんだよ、強いヤツなんていない。」
「……孝介は強い、と思う。」
「…俺だって弱いぞ。」
彼が苦く笑う。彼も、どこかが弱いというのだろうか。私と同じように。
「弱いから強くなれる…んだと、俺は思う。」
たとえば、人は悲しいことがあると、落ち込んだりする。
そういう時、誰かの言葉だったり、何かの歌だったり、映画だったり小説だったり…
そういう物に助けられたり、あるいは自分で悩んで、泣いて、考えて立ち直ったり出来る。
弱い部分があるから、人は強くなれるし、時に弱くなったりする。
それが人であって、誰だってそれは同じだ。
だからこそ、人は助け合って慰め合って生きていくんだろう。
だから、お前のために俺がいて、俺のためにお前がいるんだろう。
彼はそんなようなことを、彼らしく不器用な言葉でけれど確かな口調で話した。
少し前より逞しくなった腕で私をゆるく抱きしめる彼は、やはり強く見えた。
それでも私を抱きしめる彼の腕は、少しだけ震えていて、先ほど彼が言ったように人はどこかに弱い部分を抱えているのかもしれない、そう思った。
私が弱さをさらけ出した時、彼が支えてくれるなら、弱い私も受け入れられるようになるのだろう。
そう思えるようになるのは、まだずっと先のことのような気がした。
「お前が辛いなら、頑張る必要なんてない。」
「休んで、また頑張れば良いじゃん。」
「…うん。」
「それでいいんだから。」
「……うん。」
未だ止まらない涙を、ひとつひとつ丁寧に拭う彼の指は、私の涙でいつまでも渇かない。
枯れるまで、泣いて。そうしたら彼に、お礼を言うのだと泣き続けて痛む頭で思う。
もしも私が自分の弱さを受け入れられた時。その時は、彼も今より強くなっているのだと願う。
そうして私たちは、きっと今以上にお互いを愛し、上手く生きていけるのだろうと祈る。
在るべき姿を探す
(理想は追い続けるもので、現実は受け入れるもの)