RAIL



歳を重ねるにつれて、不器用になったなと思う。反面、器用にもなった。 本当の自分を曝け出すことに臆病になり、嘘をつくことに慣れたように感じるのだ。 他人との衝突を避け、自分を押し殺す。誰かの願いを聞き入れるために、笑顔を作ることが増えたのは、それだけ大人になったということでいいのか。 そうではないと言われたら、それで私は救われるのだろうか。救われるなど、大袈裟かもしれない。 少しでいい、安らげる場所が欲しかっただけだ。逃げ場所だとか、隠れ家だとか、誰にも邪魔されない自分だけの安心できる場所が欲しかっただけだ。

曇天の日では、うまく前も見えない。 進むべき道など用意されていない。運命を切り拓くだなんて、大層な言葉は一体どれほどの人を苦しめているのだろう。 鈍った思考回路を絶つように、起き上がる。泥だらけの脳内がいつになく煩わしくて、思わずため息を吐いた。 洗面所の鏡に映る自分に反吐が出そうだ。悲劇のヒロインにすらなり切れない不細工な自分が、何よりも煩わしい。 テレビの液晶の中で、アナウンサーが今年最大の冷え込みだと流れるように話すのを、どこか遠くに聞きながら首元にマフラーを巻きつけて家を出た。

冗長な話を続ける教師の言葉が右から左へと流れていくだけの時間を何回か重ねると、その日が終わる。 賑わう教室の片隅でのろのろと帰り支度を始める自分が、いやに小さくて、虚しくなる。 朝と何も変わらない空模様と、泥だらけの思考は、明日になったら何か変わっているだろうか。

、もう帰んのか?」
机の横にかけた鞄を肩にかけ、立ち上がると後ろから声をかけられ振り返った。
「うん、そうだよ。花井は…、部活?」
「おう。」
ドアの前で、彼と同じ野球部の二人が先行くぞと声を張り上げた。
花井はそれに手をあげて返し、またこちらを向いた。 淡い色をしたおおきな瞳が、訝しげに顰められるのを認識するより早く、彼が私の頭を撫でる。 ほんの一瞬だけの行為のはずが、やけにゆっくりに感じられたのは、どうしてだろう。
「…なに?」
「や、なんとなく。今日元気ねーなと思ったから、さ。」
何かあったのか?
そう躊躇いがちに聞かれ、身体が強張る。

まるで裸足で歩いているように、痛む。傷だらけになった足裏が、もう歩けないと訴えているのに、知らぬ振りを続けるのだ。 気が付いてしまったら、認めてしまったら、終わりだと云うように。

「何もないよ。花井はお兄ちゃんだ?」
「はぁ?」
「妹さんいるんでしょ?さすがお兄ちゃんだな、って思って。」
「…、そういうんじゃねーけど…。」
照れたのか、はたまた何かを察したのか、呻りながら彼は首元を掻いた。
「…ありがとね。」
「…え、」
「心配してくれたんでしょ?ありがとう。」
「…おお。」
彼はまだ何か言いたそうに、口を開いて、すぐにやめた。

逃げ場所を与えられたら、隠れ家を見つけたら、そこから抜け出せなくなる。 そんな不安が、私を頑なに足止めする。いつからこんなにも強がりをしてみせるようになったのだろう。自分はひたすらに不器用で、格好悪い。

「まぁ、なんつーかうまく言えねーけどさ…。」
「うん?」
「帰ったらさ、あったけー飯食って、風呂入って、さっさと寝ろよ?」
「うん、そうだね。」
「そんでさ、明日は…、」
「うん?」
彼の淡い瞳は、真っ直ぐな光を宿して、私を見据えていた。 まるで快晴のような透き通った瞳は、私をやさしくゆるやかに包み込んだような気がした。
「明日は、晴れるといいな。」
笑んだ瞳の中に映る自分が、目を見開いている。ひどく不細工で、そして幼子のように無防備だ。
「…そうだね。」
もう一度、ありがとうと呟くと、彼は一度私の髪を梳いて、微笑った。

「じゃ、部活行くわ。」
「うん、頑張って。」
ひらりと振られた手のひらに比べて、自分のそれはひどく小さかった。 ひらいた五指を握りしめ、思う。 明日が快晴でも、今日のような曇天の空でも、私は今日ほど泥だらけではないだろう。 足裏の傷は、きっと瘡蓋となり、徐々に癒えていくだろう。そうしてまた傷を負って、また歩くのだろう。
真っ直ぐ歩く必要なんてないんだと、教えてくれたから。



「花井、昨日はありがとう。」
「礼とかいらねーよ。」
「嬉しかったから。」
「別に…うまく言えなかったし。」
「でも、」
「いいって。それより―、」
「うん?」
「今日、晴れて良かったな。」
「うん、そうだね。」